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ブログ/2014-04-01

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幸手権現堂桜堤は満開でした

臨時のお花見になってしまいました

 今日は4月1日、火曜日。本来なら、私の行政書士事務所は平常営業日です。でも、最近の気候、雨が降ったり、強風だったり、えらい寒さだったり、日曜日の悪天気に祟られて、庭の手入れが全くできずにいました。そのため、急遽、忙しい事務所の仕事をすべて犠牲にして(もちろん「見栄」です (;^_^))、庭の手入れをすることにしました。
 午前中、ジョイフルホンダに花の買い出しに行きました。ところがジョイフルホンダ、昨日までは消費税アップ直前ということで、超混雑していたようんなんですが、予想通り、今日は文字通り閑古鳥がアホ~アホ~と鳴いていました。

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 私は、生来、根がひねくれているので、みんながワーワー言って買い出しに走ると、逆に引いてしまうんです。1万円買っても、僅か300円しか違わないというのに、天下の一大事のように買いに走る姿、哀れというしかありません。  思い出して下さい。これまで、何度となく、大騒ぎをした出来事。例えば、嘗ての石油ショック。トイレットペーパーがなくなるというんで、皆が買いに走りました。トイレットペーパーが自宅の物置に山積み、なんて人もいました。私は、「工場で生産するものは、絶対になくならない。すぐに平時に戻る。」と言って、一切買いませんでした。その時、米も不足しましたが、決して買い溜めはしませんでした。いずれ必ず時の経過によって、解決すると思ったからです。案の定、そうなりました。
 魚の複合汚染が騒がれた時期もありました。海水に溶け出した重金属をプランクトンが吸収し、小魚→大魚→人間といった順に食べていくこと、つまり食物連鎖の中で、これら重金属が生物の体内に蓄積されるというわけです。この論でいえば、大型の魚、つまりマグロやクジラなど、がたいの大きな魚に最も重金属が濃縮するというわけです。
 ですからこの時期、つまり昭和46年か47年だったと思いますが、全国の寿司屋さんからお客が消えてしまったんです。一番重金属が濃縮されたマグロなんて食べられないというわけです。
 そのときも私は、喜んで寿司屋に行きました。寿司は値段が高いので、普段は殆ど行かなかったのにです。生来のひねくれ者ですから、敢えて行ったんです。そうしたら、本当に閑古鳥がカーカー鳴いていました。寿司屋のご主人が大層喜んでくれて、大サービスしてくれました。
 ダイオキシン報道が過熱したこともありました。久米宏の報道ステーションが火をつけたんです。所沢のごみ焼却場の付近のダイオキシン濃度が高いのは、ゴミ焼却場のせいだというわけです。そのため、周辺農家のホウレンソウは全く売れなくなってしまいました。地元農家はテレビ朝日を訴えました。結局、あれも科学的には何の因果関係がないことが判明し、テレビ朝日は、地元住民に謝罪をしました。しかし、一度報道されてしまったら、もう後の祭りです。ゴミを燃やす者は犯罪者のように言われたため、全国のお店から、家庭用の焼却器がなくなってしまいました。

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 このように、みんながワ~ッと騒いでいる時は、一歩引いて行動する、そういう姿勢が大事だと思います。私は、常にそういう姿勢で対応しているので、慌てるということがありません。
 今回の消費税アップも、極めて覚めた目で見ていました。そのため、敢えて消費税がアップした初日に、買い物に行ったというわけです。案の定、店はガラガラでした。当然、買い物はスムーズでした。1万円ほど花と肥料を買いました。昨日買えば300円安く買えたはずですね。でも、快晴の下、のんびりゆっくり品定めをする気分、悪くないですね~。
 家に戻り、午前中は、文字通り、花を鉢に移植する作業です。午前中、必死で作業に打ち込みましたが、それでも時間が足りませんでした。已む無く、午後も事務所に「ただいま外出中です」と、見栄看板を掲げて、庭仕事を続けました。

幸手の国道は渋滞中

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 作業中、携帯ラジオを聴いていたら、交通情報。「幸手の国道4号線、約2キロの渋滞」との情報。幸手で渋滞と言えば、「お花見渋滞」か「ジョイフル渋滞」と、大体相場は決まっています。
 権現堂の桜堤、ここは昔は、と言っても私が引っ越してきた頃、つまり35年前のことですが、それほど有名ではなかったんです。のんびりと地元の人が花見を楽しんでいました。菜の花畑も、今とは反対、つまり山の反対側にあったんです。

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 でも、県が寂れた幸手を再興するため、力を入れたんでしょう。権現堂公園の桜堤と菜の花畑のコラボを演出し、駐車場なども整備しPRしたら、意外にも有名になり、そのうちに観光バスも沢山来るようになったんです。
 地元の住民としては、人が誰も来なくて、閑古鳥がアホ~アホ~と鳴いているよりは良いに決まっていますが、個人的には余りメリットもありません。強いてメリットといえば、「島田君もとうとう大字小字がつくような田舎に隠居したのか」と言われていたのが、「幸手にも少しはいいところがあるんだな~」と、言われる位でしょうか。
 でも、デメリットも多いですね。交通混雑で、地元の人間が車で花見に行けなくなってしまったからです。今は、この時期、交通混雑で買い物に行くのも不便なんです。
 もっとも、幸手には権現堂の代替の場所もあるんです。杉戸高野台公園です。幸手駅の隣に杉戸高野台という駅があります。そこの駅から歩いて数分の距離に杉戸高野台公園というのがあり、その公園の周辺の桜がこれまた素晴らしい。ですから、地元民で、車で行きたいという人はこちらの公園に来るんですね。私は、どちらにも歩いて行けますから、特に不便は感じていません。

一応下見にお出かけ

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 幸手の住民として、年に一度、権現堂の桜堤の花を見るのは義務、と思っています。私は、広島や東京、高松、もちろん出身地の那須塩原市の桜なども見てますし、観光バスで巡る「東北三大お花見名所ツアー」なんていう経験も少なからずあります。ですから、客観的な評価もできるつもりです。
 広島の比治山公園。原爆の閃光を浴びた場所です。ここの桜も素敵でしたね。特に、広島は私のサラリーマン人生スタートの場所でしたから、特に思い出深い場所でもあります。独身の頃、比治山に登って、アベックの姿などを見て、思いっきり涎を垂らしたものです。

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 東京小平の都立小金井公園の桜。ここも見事でした。徒歩圏でした。権現堂を「線」と表現するならば、小金井公園は「面」と表現すべきでしょうね。それだけの広がりを持っています。
 高松の栗林公園の桜も壮観でした。昭和53年に東京から高松に赴任したんです。キャンデーズが「普通の女の子になりたい」と言ってさよなら公演を行った翌日に赴任しました。なぜ翌日ってことが分かるか。簡単です。宇高連絡船上に、東京で行われた「さよなら公演」で買ってきたキャンデーズの関連グッズを持った若者が溢れていたからです。あのときのスーちゃんも、もうこの世にいないんですね。美人薄命です。ウチノ同居人、長生きしそうです。

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 その時の歓迎会が栗林公園で行われたんです。でも、夕刻の歓迎会だったので、寒くて寒くて、溜まりませんでした。日本酒をいくら飲んでも、胃袋のあたりだけがポ~ッと暖かくなるだけで、体全体が暖かくならないんです。花冷えですね。これと同じ思いをしたのが、大宮公園です。大宮公園も、面的な広がりを持っているので、すばらしい桜の名所です。昼時に行ったにもかかわらず、寒くて寒くてどうにもならない。そのうえ地面から寒気がジワジワと浸み上がってくるんです。外気と地面と両方からの寒気に襲われ、早々に退散した記憶が今でも鮮明です。
 

那須塩原の桜

 私にとっての桜の原点は、何と言っても西那須野町(今の那須塩原市。当時は狩野村)の烏が森公園の桜です。この公園、奥羽山脈から吹き下ろすからっ風を避けるため、山の裏側にあるんです。桜の時期には、山全体が桜で蔽い尽くされます。

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 そこのグランドで、行われる催しは、いつも競輪でした。子供たちもこの競輪を横目に見ながら花見というわけです。今だったら、うるさい父兄がいて、「教育上よろしくない」と難癖をつけるでしょうね。当時はおおらかでした。おおらかといえば、当時は、大道芸人が、様々な技能を披露していました。ガラスの破片を飲み込んで、胃の中でグニュグニュした後、再度、口から出してみせる、なんて芸もありました。
 一番ポピュラーなのが、万年筆の販売でした。万年筆工場が火事になり、溶けて固まったという万年筆の残骸を展示し、「今日ここに持ってきたのは、僅かに燃え残った物を特別に分けてもらってきた。だから安く売れるんだ」てなことを、さもありなんという口上でいうんです。今なら、そんな見え透いた商売はできないでしょうが、当時は、私も若く、純真無垢が服を着ているようなものでした。ですから「それは気の毒だ、1本買ってあげたいな」なんて思ったものです。でも、その頃は、生憎、先立つものがなかったんですね。

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 今だったら、偏屈・強情が白髪にまで滲み渡ってますから、「てやんでー、見え透いた嘘つきやがって~」なんて言って、決して手を出すことはないはずです。長いサラリーマン人生で、いびられ、怒鳴られ、けなされるうちに、人間って、本当に変わってしまうものなんですね。あなたの奥さんだって、昔は、綾小路きみまろ風に言えば、「純情可憐」を絵に描いたような人で、「行ってらっしゃい、今日は何時に帰ってくるの?」なんて聞いてくれたはずです。でも、あれから40年!、今では「潤んだ瞳に輝く目やに」状態になっているかもしれません。3人寄れば病気の話、5人寄ればお寺の話。古稀が近づき、体がコキコキなり始めている頃かもしれません。 
 ところで、この懐かしの烏が森のお花見、私にとっては、雰囲気を楽しむだけで、実際にお弁当を食べたり、買い物をするということは、ついぞありませんでした。なぜって、親が一緒にお花見に行くなんてこと、一度もなかったからです。もちろん、小遣いもありません。
 それでも、みんなが賑やかにしている姿を見ることは、子供心にも楽しいものでした。毎年、必ず見学に出かけて、出店などを冷やかして歩いたものです。いい時代でした。そういう貧しい時代でしたから、その当時の写真が1枚も残っていません。それが、今ではちょっぴり残念です。私の一番古い写真は、小学1年の時、近くの権現山に遠足に行った時に撮った、クラス全員の集合写真です。純情可憐、汚れを知らない私がそこには残っているのです。

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