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ブログ/2014-08-25

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叔父の一周忌で新潟に行ってきました

父の弟の一周忌です

 ご覧頂いている写真は、戦時中の頃の写真と思われます。私の父は、軍服を着ている人です。
 実は、今回の一周忌は、父の8人兄妹の7番目の弟(写真前列右)の一周忌だったんです。つまり、私にとっては叔父に当たります。私のもうひとりの叔父(写真後列左)は、現在栃木県の那須に住んでおり95歳です。シベリア抑留の経験があります(写真では「本人」と表示されています。)。この95歳の叔父が、豪雪のため、冬場の葬儀に参列できなかったため、せめて一周忌くらいは出たい、というので私の出番になったというわけです。早い話が、タクシーの運転手替わりをして欲しいというわけです。

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 8人兄妹の末から2番目の弟が何故、家を継ぐことになったのか。昔は、長男が家を継ぐというのが、田舎のしきたりでした。それなのに、下から2番目の弟が家を継いだ。男は全部で7人もいたんですから変ですよね。
 要するに、それは、逃げ損なったということです。つまり、上の兄弟は家に残って百姓をし、親の面倒を見るのが嫌だったため、上から順番に逃げてしまった。末の弟は、事故のため早世してしまったのです。繰り上がりで末弟になった叔父が逃げ損なって、百姓をしながら高齢の両親の面倒を見てきたというわけです。
 逃げた兄弟は、厳格な父に反発して皆逃げてしまった、と一応書きましたが、真相は、「長男以外はいらない。口減らしのため、みんな外に出て行け」という、祖父の基本的な考えが底流にあったと思います。
 もっとも、注釈が必要です。長男は、逃げたというのではなく、農家の長男として、跡を継ぐ意思は満々にあったのです。ですから、サラリーマン生活を終え、田舎に帰るまでの留守番役を末弟に託したというのが実相です。留守番代として毎月(毎年?)何がしかの資金援助をしている、と私の父から間接的に聞いたことがあります。

私の父は双子

 私の父は、一卵性双生児でした。双子の弟の方です。長じてからは明確に区別がつくようになりましたが、私の子供の頃は、本当に見分けができませんでした。

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 私の家にお兄さんの方が遊びに来たときは、本当に頭が混乱したものです。今、トイレに行ったのに、また行く。「今行ったばかりなのに何でまた行くの?」なんて、真顔で聞いたものです。それくらい一卵性双生児というのは、似ていますね。
 長じてから、2人が電話で話しているのを聞いていると、体の具合もほとんど同じように悪くなっていました。歯の痛い場所も、上の歯の右奥から2番目、と全く同じなんてこともありました。それも70歳を過ぎてからの話です。亡くなる前、パーキンソン病になったのも共通の病でした。パーキンソン病というのは、筋肉の衰えにより、手が震え文字がうまく書けなくなったり、歩き方が小刻みになったり、というような症状が出ます。
 こういう2人を見ていると、人間というのは、生まれた時から、生物としての生き方が宿命づけられているのではないか、という気さえします。

双子でも長男と次男では月とすっぽん

 今、双子の弟、という言い方をしましたが、昔は先に生まれた方が弟、後に生まれた方が兄という区分けだったようです。母親の腹の中に長くいた方が兄というわけです。でも、今は、先に生まれた方が長男。後から生まれた方が次男、という区分になっているようですね。

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 ですから、今だったら、私の父が長男ということになります。昔、つまり、父の生まれた大正時代は、まだ長子単独相続の時代でした。長男として生まれるか、次男として生まれるかは、人生に雲泥の差、月とすっぽんの差が生じたのです。
 生前、私の父がよく言ってました。兄弟2人で十日町中学(現在の十日町高校)を受験するため、毎日必死で勉強していたんだそうです。ところが、受験の前日、父親から「お前の願書を出し忘れてしまった」と言われたというのです。受験勉強は2人の方が張り合いがあるから、というので競わせて勉強をさせ、いざ受験となったら、肩透かしを食わせる。親は元々受験させるつもりなどなかったのです。
 そういう親を恨み、その日のうちに家を飛び出したそうです。新潟、それも津南地方は日本有数の豪雪地帯です。その日も雪だったそうですが、余りにも理不尽だというので、後先を考えずに家を出てしまったんだそうです。
 とにかく少しでも家より遠くへと、ひたすら歩いたそうです。中学生でも結構体力はあります。かなり遠くまで歩き、戸丸という地区まで歩いたそうです。寒くて、凍えそうになり、しかも空腹です。余りにひもじくなり、どこかで食べ物を恵んでもらおうと見回したところ、一軒だけ明かりの灯っている家があったんだそうです。

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 その明りに吸い寄せられるように立ち寄ったところが、下駄屋さんだったそうです。当時は、桐の下駄なんて結構多かったですからね。その下駄屋のおかみさんが親切な方で、大層気の毒に思い、夕食を食べさせてくれたそうです。多分、事の顛末を話したんでしょう。結局、そこの下駄屋さんで、下駄職人として数年間修業することになったというわけです。
 長男の方は、無事十日町中学に合格し、その後、サラリーマンとして前田建設工業の専務取締役まで上り詰めました。父は、その後、軍に召集され、陸軍獣医学校に所属しました。戦後、獣医の資格を得、西那須野町(現在の那須塩原市)で開業することになったのです。

運転手として送迎を担当

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 23日、運転手として、埼玉の自宅から栃木県の那須に向かいました。一般道を使うべきか迷いましたが、高齢者を乗せるので、高速道路の方が運転がしやすいと思い、東北自動車道→関東自動車道→関越道、湯沢ICというコースをとりました。
 途中、谷川岳サービスエリアで休憩。ここは清冽な水に恵まれているようで「6年水」という水場で、写真でご覧のように、皆さんペットボトルやポリタンクに補給していました。谷川岳に降った雨が6年を経て湧水として出てくるというわけです。お茶として飲むと大変美味しいというようなことが、効能書きに書いてありました。

耳の遠い人との会話はつらい

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 送迎をしたこの95歳の叔父さん、実は耳が大変遠いんです。高齢になれば誰でも似たようなもので、私も偉そうなことは言えません。私も、妻から耳が遠いとしばしば指摘され、「今からこれじゃ先が思いやられる」なんてさげすまれているので、耳の遠い人の苦労や気持ちがよく分かるんです。私は、「耳が遠くたって、小さい声で悪口を言ってるのはよく聞こえるんだ」と反論することにしています。
 この叔父さん、シベリア抑留の経験者です。耳は遠いですが、目はしっかりしています。ご覧のように、しっかり筆談できますし、昨年まで車の運転もしていました。さすがに家族が心配して、無理やり免許を返上させられましたが、今でも運転はできるはずです。2年ほど前、私がシベリアでの体験を記録に残してはどうかと持ちかけたところ、パソコンで記事を書くのを楽しみにするようになりました。
 その原稿をまとめて、「シベリア抑留記」として掲載しました。こちらの方も、是非参考までご覧ください。→「シベリア抑留者の手記

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 それにしても、この叔父さん、極端に耳が遠いんです。耳元で大声で話せば聞こえますが、通常の会話は全く駄目です。ですから、高速道を運転中も会話というものは、全くありませんでした。夕食時も、全く会話ができません。他の客から見たら、「あの親子、よほど仲が悪いみたいだな」と思ったかもしれませんね。
 上の写真は、叔父の姉(私にとっては叔母)の家を訪ねた時のものです。ご覧のように、姉の長男と叔父との会話はすべて筆談で行いました。左のお婆さんは、上の全員集合で写っている写真の前列右から2番目の女性です。現在、97歳です。綾小路きみまろ風に言えば、「あれから70年!」、そう、みんなみんな若かったのです。いきなり歳をとったわけではないのです。

97歳の叔母さんの編んだ手編み

 上の筆談の写真の左側に映っているのが、私の叔母さんです。御年97歳ですから、2年後は白寿の祝いですね。97歳でも、耳の方は結構しっかりしており、何とか会話は成立します。

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 この叔母さん、冬場は編み物に精を出しているようです。というのは、農作業が全くできないからです。なぜなら、ここ津南地方は、全国屈指の豪雪地帯だからです。私は、この地で冬を過ごしたことがありませんが、豪雪の上、雪下ろしによって、玄関前は雪のお山です。やむなく2階から出入りをすることになる、と聞いたことがあります。
 それほどの豪雪地帯ですから、冬場は、家の中に閉じこもり状態になります。そういう時期に、内職的に始めたのでしょうか。冬のあいだ、編み物に精を出すようで、ご覧の作品は、冬場にせっせと編んだ足ふきマットです。
 決して洗練された作品とは言えませんが、ほのぼのとした素朴さに大いに好感が持てます。今度、ヨガ教室の生徒さんなどに配ってあげようかと思っています。

田舎の法事は盛大です

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 翌日、10時から自宅で法事が行われました。一周忌の法事でも、随分と人が集まるんですね~。もっとも、この家は、島田家の本家に当たるので、分家の人達が何人か集まってこられたようです。
 お墓の前で撮った写真を上に掲載しましたが、その際、周囲の墓の墓碑銘を一通り見て回りました。殆んどが島田姓で、残り数基が湧井姓でした。島田のご先祖様はこの地域を地盤にしていたのかも知れません。墓標を仔細に覗き込んで見ていると、嘉永や弘化、安政なんていう年号が見てとれますから、少なくとも江戸時代中期位からこの地に住みついていたことは間違いありません。
 余りにも島田姓が多いので、姓を呼んだのでは全く区別がつきません。そのため、屋号のような符丁で呼び合うようになったのでしょう。「アタシャ」とか「マメダ」、「ドドムキ」なんて屋号で呼んでいました。漢字を当てると、一体どんな字になるのでしょうか。

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 今日の法事、型どおりの読経が済んで「しなの荘」というところで、会食と相なりました。昨夜、1泊したところです。温泉は、ぬるっとした感触がしますが、極めて快適、良質な泉源だと思います。部屋から信濃川の流れが一望できる(写真下)のもすばらしいですね。
 このしなの荘で、法事後の会食が催されました。最近は、田舎の法事に出席することはめったにありません。本当に何十年振りかの経験ということになります。

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 ご覧のように、椅子に座っての会食です。高齢者が多くなり、正座をしなくてもいいように、との配慮だと思います。料理の方は、高齢者が多いにも拘らず、盛りだくさん。とても食べ切れるような量ではありません。でも、そこはよくしたもので、食べ残しを持って帰れるように、折詰用のパックもしっかり用意してあるんですね。「食べ物は足りないより、食べ残す位多い方がいい」。田舎の風習が、ここではまだしっかりと根づいていました。

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