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ブログ/2014-12-12

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「学童疎開船「対馬丸」からの生還」を聞いてきました

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 行政書士春日部支部の研修会で、このタイトルの講演を聞いてきました。行政書士の仕事とは、関係ありません。偶々、この対馬丸に乗船していた生き残りの方が春日部市に在住しておられるという情報があり、それでは「研修会」の際に、その体験をお聞きしてみようということになったというわけです。
 講師は、仲田経営研究所代表の仲田清一郎氏です。沖縄県出身で、敗色濃厚となってきた昭和19年7月、学童疎開船「対馬丸」に乗船し、アメリカの潜水艦によって撃沈され、生還したという貴重な体験をお持ちの方です。
 この時の乗船者は、全部で1,661人、生存者は185人だったそうです。助かった人は、僅か10人に1人しかいなかったということになります。それでも、夜中に潜水艦によって撃沈されたのに、10人に1人が助かったというのは、むしろ多いと言えるかもしれません。
 多分、その理由は、潜水艦による攻撃を想定していたため、寝るときにも絶対に救命胴衣を肌身離さず装着していろ、と命じられたことにあるのかもしれません。この救命胴衣、今のようなものと違い、腹側と背中側に堅く膨らんだ状態で装着していたので、堅くで仰向けに寝られず、横になって寝ていたそうです。
 

九州に8万人、台湾に2万人

 仲田さんは、当時まだ8歳の小学2年生。まだまだ子供の時代でした。沖縄へも米軍が上陸し、戦闘になることが予想されるというので、沖縄の学童を全員疎開させることになったんだそうです。疎開させる学童は全部で約10万人。そのうち、九州に8万人、台湾に2万人を疎開させる、ということになったそうです。

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 仲田さんの話によると、当時は、衣料品が不足していたために、「衣料切符」というものが発行されていたそうです。衣料品でさえ、自由に買うことができなかったということですね。それでも疎開する者には、特別余分に衣料切符がもらえたそうです。その時に買ってもらったものの中で、一番嬉しかったのは革靴だそうです。それまでは運動靴しか履いたことがなかったからです。
 出航の朝、父親が彼の航海の無事を祈って、声を出して千手観音に祈ってくれたそうです。「今日、清一郎が大和に疎開します。観音様の手の平に乗せて無事に大和まで届けてください。」と。大和というのは、沖縄から見た本土の呼称ですね。沖縄では、お祈りをするときは、ほかの人にも聞こえるように声を出して祈るのが一般的なんだそうです。

落ちても救助はしない

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 出航時、岸壁には多くの家族が見送りに来ていたそうです。沖で6,000トンの対馬丸に乗り換え、大和に向かって静かに出航していったといいます。
 岸壁には、多くの家族が見送りに来ていたそうです。今のようなハンカチではなく、白い布のようなものを振るので、顔が良く見えず、お母さんの顔を確認することができなかったと言います。すぐに海に飛び込んで帰ろうと思ったそうですが、下をのぞいたら、とても無理だと思って諦めたそうです。まだまだ親離れのできない年齢ですから、その気持ちは分かりますね。ほかの生徒もみんな同じ気持ちだったのではないでしょうか。
 沖合で対馬丸に乗り換えると、全員がすぐに船底に集められ、先生からでしょうか、注意がなされたそうです。「船外に物を捨てるな、声を出して騒ぐな」、というわけです。そして、「間違って海に飛び込んだ者がいても救助しない」、ということも言われたそうです。

潜水艦

 これらは全て、米軍の潜水艦に気づかれないようにするためだというわけですね。存在を気づかれると、追跡されて撃沈されるというんです。
 当時、沖縄の人達はサトウキビをおやつ代わりに食べる習慣があったそうで、その食べカスのサトウキビを海に捨てると、潜水艦に位置をキャッチされ攻撃目標になるというんです。
 もうひとつ、注意事項として、「船が沈む時は一刻も早く船から離れろ」という項目もあったそうです。小学2年で、「沈んだ時は早く離れろ」なんて言われたんでは、生徒たちも随分心細い思いをしたことでしょうね。
 

夜中に強烈な衝撃音

 航行の途中、夜中に突如、耳をつんざくような大音響がしたそうです。その瞬間に、「音」が全く聞こえなくなってしまったと言うんですね。音が全く聞こえないのに、人が動いているのは見える。まるで「無声映画」を見ているようだったと回想されていました。沈む船の中で、上へ上へと登って行ったそうです。しかし、周囲は真っ暗で、何がなんだか分からない。海の底に引きづり込まれてはまた登る、という感じだったそうです。全員が救命胴衣をしていたので、上に登ることができたんでしょうね。
 そして、とうとう海上まで浮上することができました。そこでは子供たちの「おとうさ~ん」「おかあさ~ん」という声が、しばらくの間聞こえていたそうです。
 仲田さんは、偶々近くに浮いていた丸太に掴まっていたそうです。そこへ赤ん坊を背負った女性が流れつき、一緒に丸太に捕まっていたそうです。その時、しばしその女性と話をしていたら、心が休まるような感覚がしたそうです。
 その女性が助かったのかどうか、戦後、いろいろと探してみたが彼女に関する情報が得られることはなかった。多分、海の底に沈んでいかれたのではないかと思います、とのことでした。
 

漂う海の中で

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 仲田さんは、このようにして丸太に捕まっていると、あそこにもこちらにもいた人たちが段々少なくなっていき、次第に周りが静かになっていくのを感じたと言います。気がつくと、体中に青白い光が一杯ついていたそうです。夜光虫ではないかということでした。
 そのうちに、いつのまにか近くに高等科のお兄さんたちが流れ着いてきたそうです。一緒の丸太に掴まり、いろいろ話をしたそうです。その高等科のお兄さんたちが「お腹がすいたか」と聞くので、「すいた」と返事をすると、近くの島を見つけ「あの島に行って芋を掘ってきてやろう」と言って、二人で泳いで行ってしまったんだそうです。
 戦後になって、このふたりの消息も調べましたが、一切分からなかったそうです。一緒に掴まっていれば、仲田さんと一緒に救助されたのに、残念ですね。

漁船に救助される

 意識も薄れかけた頃、「あそこに人がいるぞ~!」という声に気づきました。自分では水を求めて「水、水、水」と叫んでいたようですが、誰かが「水をやったらいかんぞ~」と叫ぶ声が聞こえたそうで

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す。その漁船の中で少し体力が回復し、漁船の後ろのトイレに行こうとした時、船が横揺れし、思わずそばの煙突部分に抱きつこうとしたら、猛烈に熱かった。この煙突の熱さで、「自分は生きている」ということを改めて実感したそうです。
 この時はもう体は干物のようになっており、体が思うように曲がらない状態になっていたそうです。その後、いつ眠ってしまったのか全く分からず、目が覚めたときは、船ではない場所に寝かされていたそうです。

今上陛下のこと

 仲田さんは、「今上陛下には何の責任もない」、と仰います。太平洋戦争は、昭和天皇の時代のことであり、平成天皇は幼児であったので、何らの責任がないということですね。
 今上天皇がまだ皇太子であった頃、仲田さんの友人が、皇太子と一緒の場所にいたことがあったそうです。皇太子が一人で外に出ていくので不審に思いついて行ったら、南の方角を向いて祈っておられた。
 その理由を尋ねてみると、皇太子は「今日は対馬丸が沈んだ日なんだよ」と言っておられたという。対馬丸が沈んだ当時、皇太子もほぼ同世代であったことから、当時のことをよく記憶されていたというんですね。

菅総理の対応に不満

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 民主党政権下で、中国漁船が海上保安庁の船に体当りしたことがありました。その時、菅総理は海外にいたんですが、当然、情報は入っていた筈です。今の情報化の時代、こんな重大事項の情報が入らないはずはありません。しかし、菅総理は、帰国後、「検察庁の担当者が勝手に判断して釈放した」と言ったのです。
 仲田さんは、この時、余りにも弱腰すぎると激怒し、直接、菅総理あてに抗議のメールを送ったそうです。私も、この当時、あまりの弱腰外交を腹立たしく思いましたが、仲田さんも同じような感慨を持っておられたんですね。こういう対応をすると、「日本は恫喝すれば何でも言うことを聞く国だ」という認識が中国側に定着します。東南アジアをはじめとする国際的な評価も落とすことになります。東南アジア諸国は、傲慢で膨張志向が強く、国際法を無視する中国の台頭を、内心では苦々しく思っているからです。

生命を軽んじた日本

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 仲田さんが最後に言われたのは、「いかに戦時下とはいえ、日本は人の命というものを余りにも軽んじすぎた」と言います。アメリカの場合、墜落した戦闘機のパイロットを救出するために、どのような困難があろうと、必ず、救出のための手立てがなされたと言うんですね。命の貴さをよく知っていたのは、日本よりもむしろアメリカの方だったのかもしれません。
 神風特攻隊も壮絶でしたが、人間魚雷の「回天」もひどいものでした。人間がひとり入るだけの空間を作り、一度乗ったら出られないように外からボルト締めをして、敵空母に突撃する。しかも、これに乗る乗員の平均年齢は21.1歳だったとされています。近代戦を戦う軍隊として、余りにも若い命を粗末にしすぎました。
 もちろん、今の感覚で当時を批判するつもりはありません。その当時は、一部では戦争を賛美する風潮があったことも事実だからです。精神論が美化されていたことも事実でしょう。しかし、国民すべての命がかかっている時に、国のリーダとして判断すべきは、「負ける戦争はしない」ということことです。また、やむなく戦端が開かれたとしても、全国が焦土と化すような負け方はいけません。「引き際」の判断も、リーダーとしては重要な資質です。
 近代戦は、「精神力」だけで戦えるものではありません。竹やりで飛行機は落とせないのです。太平洋戦争末期、本土決戦に備えて、竹やりで相手を殺す訓練が真面目に行われていた、という事実に思いを致すべきです。戦車や機関銃で武装した相手に対して、竹やりはないでしょう。近代戦は、情報戦であり、重火器を大量に消費する物量戦であるということを、冷徹に俯瞰できる指導者がいなかったということでしょうか。
 

 
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