時事寸評 書評コーナー

welcome to shimada's homepage

深刻化するワーキングプア

深刻化するワーキングプア

画像の説明

テレビで見たワーキングプア

 かなり前の話になりますが、テレビを見てショックを受けた番組が2本あります。一本は、NHKスペシャルで、「ワーキング・プア」というタイトルのつけられた番組です。もう一本は、日本テレビのドキュメント「キモイ、うざい、辞めろ・・・教室の不満、悩める教師たち」(小学校の異変に密着1年)というものです。

画像の説明

 前者の「ワーキング・プア」は、今の日本で、働く能力があり、実際に仕事にも従事してはいる。しかし、所得水準が低すぎて、生活の向上が望めないまま、社会の底辺で喘ぎつつも生活の向上が見込めない、という階層の人達を取り上げたものでした。番組では、このような働く貧困層が、400万世帯!!に達しており、このような世帯が、現在、急増!しているというのです。
 最初に取り上げた一人は、45歳の時にリストラされたというサラリーマンでした。子供が二人おり、無職を謳歌する余裕はありません。リストラ後直ちに再就職活動を開始するものの、適職にありつけず、結局、ガードマンやら、ガソリンスタンドの店員やら4つの仕事を掛け持ちし、夜勤もこなし、朝8時頃に帰宅する。その時刻には、子供達は、自分達で朝食を作って食べて登校しており、子供の顔を見ることも出来ない。4つもの仕事を掛け持ちし、身を粉にして働いても年収はせいぜい200万だというのです。このような収入では、子供に義務教育を受けさせるのがやっと。高校、大学に進学させたくとも、入学金などとても払える状況ではない。仕方なく、更にもう一つアルバイト先を探そうかと悩んでいるサラリーマンのお父さんの残酷物語でした。これが世界一豊かな国日本の実話だというのです。
 二人目は、東北の片田舎の町で洋装店を経営している経営者の物語でした。今、田舎の町はさびれているところが多いですが、ご多聞にもれず、30年程前までは賑っていた商店街が、一軒、また一軒と店を閉じ、その洋裁店のほかには、数軒のスナックバーが残っているだけというような惨状を、カメラはリアルに映し出していました。その洋装店も、嘗ては、数人の従業員を雇い、店もかなり繁盛していたそうですが、街の衰退とともに、顧客も激減し、背広など新しく仕立をする客もない。辛うじて、毎月、寸法直しや繕い物の仕事を数件こなすだけで、日々を過ごしているというような生活ぶりでした。多分、奥様に先立たれたものと思いますが、毎食、百円程度の予算で食事を作り、一人寂しくご飯を食べる。そこにはもはや、夢や希望といったものはどこにも見当たらない侘しい田舎生活の風景がありました。
 三人目は、30歳前の一人暮らしの青年を取り上げていました。番組がつけたタイトルは、「仕事に就けない若者 都会を漂流」というものでした。彼は、就職の意思はあるものの、正規の職員としては採用されず、アルバイト的な仕事にしか就くことが出来ない。常にカツカツの最低限の生活に甘んじなければならず、蓄積ができない。従って、今の生活状態では、結婚することなど到底叶わぬ夢、といったホープレスの生活状況を映し出していました。
これら3人に共通するのは、①仕事は一応ある、②しかし絶望的なほど薄給である、③将来に希望を見出すことが出来ない、④現況から脱出したいと思いつつそれができない、ということです。社会の底辺で、このように必死になって生きている人々の数が、最近、急速に増加しているというのです。番組では、これらの人々をワーキング・プア「=働く貧困層」と名づけているわけです。

出口の見えない閉塞感

 一人目のリストラ・サラリーマンのように、今の日本では、中年になってリストラされてしまうと、カメラのシャッターが閉じてしまうように、その瞬間から生活が真っ暗闇になってしまう。決定的な敗者として、それまでのような生活を維持することは、ほぼ絶望的になってしまう。これは、企業から、終身雇用というわが国の麗しい伝統が消滅してしまったことと、企業社会においては、欧米に見られるような労働の流動性がないことによるものと思います。二人目の洋装店主も、シャッター通りと揶揄されるような商店街の錆びれの中で、その閉塞状況を脱するすべがないまま、その日暮しをせざるを得ないわが身の不甲斐なさを嘆じていたように見えました。近未来において、町の活性化をもはや期待することはできないでしょう。三人目の若者も、折角働く意欲がありながら、派遣社員的な仕事にしか就くことができず、将来への展望が開けない。このような労働環境は、これからの日本を支える若者の夢を奪っており、社会全体にとっても由々しき問題だと思います。

画像の説明

 これら3人のおかれた現状が、経済の変動期における一時的な現象と見られるなら、救いもあります。しかし、私には、このような閉塞状況が一時的、短期的な問題だとは思われないのです。夢を奪われた若者は、精神的に歪み、社会に反感を持ち、社会を恨んだりするようにもなるかもしれません。リストラサラリーマンも、零細洋装店主も、自分が生き延びることに必死で、社会や政治に対して屈折した気持ちを持つようになるかもしれません。他人のことを思いやるいたわりの心や、趣味の世界に遊ぶというような精神的なゆとりも失われ、ギスギスした社会の構成員とならざるを得ないでしょう。

荒廃する教育

 私は、こういった基本的な問題のほかに、更に深刻だと思われるのは、学校教育の問題です。冒頭で述べたテレビ番組「キモイ、ウザイ、辞めろ・・・教室の不満、悩める教師たち」を見ていると、本当に日本の将来はどうなってしまうのだろう、という暗澹たる気持ちになります。
 この番組を見ていて深刻だと思うのは、教師がいくら注意をしても、生徒たちが全くと言ってよいほど、聴く耳を持たないということです。先生が大声で怒鳴っているのに、これを敢えて無視しておしゃべりに夢中になっている。このような姿は、私たちの子供の頃にはありえない光景でした。しかも、問題なのは、生徒たちの会話の中に、「暴力を使えば、先生は首になるからね~!」という会話があったことです。このことが事態のすべてを象徴しているのではないでしょうか。このテレビ番組の舞台は、中学、高校ではありません。小学校!ですよ。私たちの子供の頃は、先生というのは、尊敬の対象であり、先生の言うことを聞かない、などということは想像することもできませんでした。先生に叱られれば、親から「お前が悪いからだ」と言われるに決まっていますから、叱られたことを親に言うなどということも考えられませんでした。親と学校との間に、強い信頼関係があったのです。
 教育の場というのは、教える者と教えられる者が存在し、教えられる者が教える者を尊敬してこそ成り立つシステムです。小学校という幼少期の教育現場で、生徒が先生の言うことを聞かずに教育が成り立つのでしょうか。小学校時代に先生の言うことを聞かずに育った子供が、中学生になったら、急に先生の言うことを聞くようになるとも思われません。むしろ「体罰厳禁」という環境の中では、一層悪い方に増幅され、収拾がつかなくなることは火を見るよりも明らかです。そのような子供達が形成する近未来の社会というのは、一体どのような社会になるのでしょうか。しかも、これから巣立つべき社会の実相は、先に述べたように、ワーキング・プアで溢れているんですから、文字通り、夢も希望もないということになってしまいます。
 元マレーシア大統領であるマハティールは、「日本人よ。成功の原点に戻れ」の中で、次のように述べています。
『人間作りに必要な教育とは何か。それは、規律と礼儀である。親を尊敬し、先生を尊敬し、目上の者を敬い、先輩、上司に従うといった規律が、社会秩序を生み、安定した社会を育てるのである。この規律と礼儀は、突き詰めると、この世を創造された神を敬う宗教心となる。
 逆に、子供に秩序と礼儀を教えないと、やがて彼らは親を馬鹿にし、先生を馬鹿にし、自分の都合よいように人生を生きるようになる。彼らの世界には秩序がなく、自分の欲求を追及するあまり、他人に自分の意見を力で押し付けるようになる。彼らはすべての成否を、勝ち負けのみで判断するようになり、弱者を踏みにじり、常に勝つための力を蓄えようとし、人を殺す戦争をも権力の道具にしようとするだろう。道徳と愛国心を学校で教育しようとすると、「独裁者的な教育だ」というそしりを受ける。しかし、現実は逆である。正しい道徳教育としつけは、必ず平和主義者を生む。無秩序は独裁者を生む。これは歴史が証明している。』

体罰は必要悪

 私も、この意見に全く同感です。マハティールは、体罰(愛の鞭)という言い方はしていませんが、規律と礼儀を守らせるためには、時には、厳しい愛の鞭があっても然るべきだと、言外に言っているものと思います。嘗ての日本はそうでした。私の持論は、「子供は動物と同じ」です。動物は、言葉で言って分からないときには、餌や体罰でしつけます。人間の子供を食べ物でしつけるということは難しいでしょうから、基本は体罰ということになります。勿論、体罰といっても、常時それを遣うべきものではありません。最小限の規律と礼儀を身につけさせるために、時には体罰も許容されるべきだということです。鼓膜を破るような激しいものであってはいけませんが、愛情が前提としてあるならば、時には、ビンタを張るくらいは当然許容されるべきものだと思います。電車の中で走り回る子供に対して、母親が「○○チャン、いけません」なんて繰り返し注意しますが、子供のほうは一向に止めようとはしない。そんなとき、私は、その母親を張り倒したい誘惑に駆られます。「子供は動物なんだ。公共の場で他人に迷惑をかけたら、頭の一つも張り倒せ!」と言いたくなってしまうんです。
 話を戻しますが、このような無規律、無節操な子供達が量産されて、送り出された社会が、ワーギング・プアが溢れていたとき、これからの日本は、どのような社会になるのでしょうか。もう10年ほど前に、ある大学の教授が、「今の学生は、授業中に私語ばかりして、いくら注意しても聞かない。静かにさせて授業を再開すると、またすぐに私語を始める」と嘆いている文章を読んだ記憶があります。もう、そういう規律も礼儀も知らない世代が、既に社会人になりつつあるんですね。
 古い話になって恐縮ですが、堀江貴文や村上ファンドの村上世彰に見られるように、若者世代は、額に汗して働くのではなく、違法でさえなければ何をやってもよい、それがかっこいいことだ、との認識が若者世代から支持を受けていた時期があります。村上世彰など、儲かったからシンガポールに本社を移すという動きさえしました。ハリーポッターの翻訳者岡本祐子は、国税庁から、翻訳によって得た所得のうち36億円の申告漏れを指摘されました。しかし、彼女は住所をスイスに移転したので日本で税金を払う必要がない、と主張しました。日本人が、日本の読者が買ってくれた本の税収を日本国に還元しようとせず、僅か10%税金の安い外国に払おうとするこの精神は、日本の教育にその淵源があるような気がしてなりません。自分の国に誇りをもたない、自分の国を愛さない、このような日本人を大量生産してしまった日本の教育制度の結果と言えるのではないでしょうか。
 こういった夢をもてない社会を、もう一度夢の持てる社会に変革していくためには、どうすればよいのでしょうか。

画像の説明

三つの提言

 究極的には、政治の力を抜きにして考えることはできませんが、私は、次のような諸点を実行すべきだと思っています。
◎第一は、教育の建て直しです。
教育の問題は、短期的に解決することは困難です。しかし、時間はかかっても、地道に取り組んでいく必要があると思います。そのためには、先ず、義務教育期間における倫理教育、道徳教育をきっちりと学習させることであり、そのためには、体罰も、必要な範囲で許容すべきであると思います。倫理、道徳教育の中には、武士道のような嘗ての日本人が持っていた義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義といった徳義心についても学ばせる必要があると思います。しつけの問題は、学校よりも、先ずは、家庭における教育の問題の方が大きいように思います。家庭でしつけが出来ないような親に限って、体罰を暴力だと言って騒いだりするものです。今の状況を放置しておくと、お金のある親は無放縦な義務教育に見切りをつけ、しつけや規律に厳しい私立学校に通学させるといった、学校回避の現象が出てくるのではないでしょうか。まともな親は、既に実行しているのかもしれません。
◎第二は、終身雇用制の復活です。
社会にワーキング・プアが氾濫しているような状況は、早急に改める必要があります。この問題を解決するためには、「終身雇用制の復活」をする以外にないと思います。終身雇用制には、労働の流動性が阻害されるとか、人事が硬直化するとか、国際競争力が損なわれるとか、マイナスの面もたしかにあります。しかし、私は、プラス面の方がはるかに大きいと思っています。何と言っても、一家の大黒柱の働く職場があり、しかも、雇用が安定しているということは、家庭での精神的、経済的な安定要素であり、妻や子供達の気持ちも落ち着きます。人間には「背骨」が必要であるように、安定した職場は、家庭のバックボーンとなるものです。安定した職場があれば、家族の将来計画が樹てやすく、ローンなども組みやすくなります。将来への心配が少なくなれば、消費も刺激され、経済に対する波及効果も出てきます。終身雇用というのは、少なくとも明治以降、日本の順風美徳であったはずです。10数年前から「リストラ」という言葉がはやり言葉のようになった頃から、急速に日本の美風が廃れてしまいました。時計の針を逆回転させるのは難しいことではありますが、つい最近まで日本に定着していた雇用慣行ですから、制度面、税制面で強力にサポートすれば、復活できない目標ではないと思います。これこそ政治の出番だと思います。

◎第三は、地方の活性化です。
 この問題が、一番解決が難しいテーマかもしれません。シャッター通りに見られる過疎地の貧困、地方商店街の衰退といった問題は、早急に対策を講じる必要があります。解決策を模索する場合、その原因から考える必要があると思います。
 そもそも地方の貧困、過疎化は、なぜ生じたのでしょうか。これは、日本人の価値観に由来するものと言うべきでしょう。即ち、良い生活とは、「良い収入があり、いい家、いい車がある生活。医者や飲食店など生活利便施設が近くにあり、交通至便であること、そして、できることなら濃密すぎる人間関係から開放された生活」ということになるのでしょう。つまり、これは都会の生活そのもののことです。昔も今も、田舎の人は都会の生活に憧れを持つものです。
 これと対極にあるのが、「都会的なものは殆んどないが、広い土地、広い家、それに豊かな緑の環境、濃密な人間関係がある生活」、これが田舎の生活というものでしょう。田舎の人は、広い土地、広い家、豊かな緑があることよりも、都会的なものの方により多くの魅力を感じてきたということなのでしょう。特に若者は、都会的なものに憧れます。これを後ろから後押ししたのが、車社会でしょう。車社会は、人間の行動範囲を飛躍的に拡げます。自分の町にないものは、隣町、隣町にないものは中核都市へというように、いとも簡単に行くことができます。このように行動の範囲が大幅に広がったことが、商業地の淘汰を誘導したと思います。駐車場を備えた大規模ショッピングセンターは、若者世代ばかりか、高年者にも魅力があり、歓迎されました。大規模店が出来れば、旧来の商店街はひとたまりもありません。あちこちにシャッター通りができたのは、自然の流れでもあったわけです。しかし、法規制によって、大規模ショッピングセンターを締め出すことには、賛成できません。それでは消費者のニーズを、一方的に無視することになるからです。中心商業地は、時代とともに変化してもよいものだと思います。嘗ての駅前商店街は、そこが人の集うのに都合の良いところであったからこそ栄えたのであり、車社会になれば、大規模駐車場を備えた郊外地が有利になるのは、理の当然です。時代の流れに竿をさしても労多くして益少なしです。
 しかし、田舎、過疎地の活性化は日本の国全体として必要な施策であり、国、地方上げて取り組むべき課題だと思います。ただ、その実現の手法として、大規模商業施設のように、便利なものを押さえつけるのではなく、行政が持っている権限を適切に行使することにより、「田舎に住みたくなるように誘導する」という方向が大事なのではないでしょうか。
 地方の活性化は大きなテーマであり、重要な問題点を多く含んでいますから、改めて、私の考えを述べてみたいと思います。

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional