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橋下市長、殿、ご乱心です

橋下市長、殿、ご乱心です

暴力教師と入試中止は無関係

 大阪市立桜宮高校のバスケット部の主将が自殺した事件。余りにも有名ですから、内容の説明はいらないと思います。自殺した両親の話によれば、バスケット部の監督に30発から40発殴られたとのこと。暴力が常態化していたことは想像に難くありません。従って、この監督を非難すること自体に、特に異論をはさむつもりはありません。

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 問題は、橋下市長が行政の長として、この桜宮高校に対して迫った「体育学科の入試そのものを中止せよ」という行為と、「桜宮高校の体育科教師全員を移動させよ」という行為のことです。予算執行権を背景とする、これらの事実上の命令に対して違和感を覚える人は多いのではないでしょうか。
 監督にけしからぬ暴力行為があったことは、誰もが認めるところです。だからといって、そのことがなぜ「体育学科」の入試そのものを中止させることにつながるのでしょうか。全く理解不能です。先の野田内閣改造で、文部科学大臣に就任した田中真紀子氏が、唐突に、「3大学の新設を認めない」と宣言したあの事件と重なるものがあります。大学の数が増えすぎて、学生の質が低下している。もうこれ以上大学を増やす必要はない。その言い分はもっともです。でも、直前まで、新設を認めるとの前提で動いていた関係者の立場からすれば、堪ったものではありありません。文科省の役人と事前に十分打ち合わせをし、入試要項も公表し、施設の整備や教員の確保など多額の投資をしてきたのに、大臣が変わったとたんに、鶴の一声で天地がひっくりかえってしまったんですから、受験生にとってこんな迷惑なことはありません。まあ、結果は落ち着くところに落ち着きましたけどね。

連帯責任ははた迷惑

 今回の桜宮高校の場合も、体育科の入試に備えて受験勉強をしていた生徒にすればこんな迷惑な話はありません。そもそもバスケット部の監督がけしからん人物であったことと、入試の中止にどのような関係があるのでしょうか。高校野球の野球部員の一人が喫煙や飲酒、その他の非行があったことを理由に、高校野球への出場資格が取り消されるというのも少し変だと思いますが、今回の事件はそれ以上に変です。
 しかも、今回は、桜宮高校の体育教師全員を移動させろ、というんですから、これ以上の「連帯責任」はないですね。連帯責任とは、本来は、自分に何の落ち度、責任がないのに、無理やり責任を取らされるという観念です。他人の借り入れに連帯保証人になったが故に支払い義務を負わされる、あの不当な責任のことです。それでも法律の世界でなら、一応、それなりの覚悟を持って連帯保証人の判を押したんですから、それなりに諦めもつくでしょう。
 しかし、たかがクラブ活動の一監督が「鉄拳制裁で鳴らした教師」であったというだけの理由で、入試そのものを中止させたり、体育教師全員を移動させたりというのは、いささか行きすぎだと思います。確かに、市立高校ですから、市からの補助金を出さないとか、いろいろのやり方で締め付けることは可能でしょう。でも、予算執行権を持っているがゆえに、入試中止を迫ったり、教師全員の移動を迫ったりというのは、行政の長として余りにも行き過ぎです。

教育委員会は常に日和見

 橋下市長は、これまで府行政や市行政について、大胆な改革をしてきた人物です。だから、市民も「橋下市長がやることなら」とかなり大目に見ているのかもしれません。私も基本的には橋下市長の行動力に敬服しており、支持しているところです。しかし、今回の橋下市長の事実上の命令には納得しかねます。高校側でも、筋の通らないことは受け入れられないと、断固としてはねつけるべきだったと思います。
 確かに、これまで「教育委員会」というものは、一般の国民の目線からすれば、「全く無用の存在」か、逆に「障害になる存在」と言われても仕方のないことが多々ありました。公正であるべき教師採用試験を裏で操作していた大分県の教育委員会や、いじめ問題を隠ぺいしたり、事なかれ主義で黙認したり、枚挙にいとまのない位多くの事例があり、その存在意義が厳しく問われている組織です。
 ですから、教育委員会が困っている姿を見ていると、少しも同情する気にならないのですが、今回の問題は、教育委員会だけの問題ではありません。市長の強権発動で、入学試験が中止されたり、体育会系の教師が全員移動させられたり、というのは余りにも筋違いです。市役所職員の給料を一律30%削減するとか、残業手当を認めないとか、改革の方向性に納得感があるのなら構いませんが、今回の事件には、そのような脈絡もなく、何の納得感もありません。

独裁者の論理

 そもそも、今回の問題の発端は、バスケットボール部の監督の暴力とそれに直接起因する高校生の自殺でした。要するに、①高校教師が日常的に暴力をふるっていた、②そのことが原因で高校生が自殺した、③よって、教育現場での暴力は一切許すべきではない、④このような教師のいた高校の体育科の存在も認めるべきではない、⑤体育会教師も全員連帯責任がある、よって、全員移動させる。この一連の流れ、何だか独裁者による恐怖政治を彷彿とさせませんか。

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 そもそも、教師による暴力というのは、一切認められないものでしょうか。私は、教育現場であっても、時と場合によっては、ビンタ程度はあってもよろしいという立場です。嘗て、先生は「絶対に暴力はふるえない」ということが行きすぎた時期がありました。その結果、教室は荒れ放題、授業中、生徒が教室内を勝手に歩き回り収拾がつかない、ということが問題となった時期がありました。どんな行状があっても、教師は絶対に生徒に暴力をふるえない。このことを逆手にとって、教室が混乱の極みに達したのです。「暴力教室」(主演:松田優作)という名の映画すらありましたね。このような悪ガキが闊歩する教室で、ビンタのひとつさえも一切許容されないというのであれば、とてもまともなクラス運営はできないと思います。
 江戸時代、武士は刀を差していましたが、実際に抜いて切り合いをするというようなことはめったになかったそうです。それでも帯刀しているということが、武士にとって名誉であるだけでなく、一般市民も武士に対しては一目置かざるを得ない存在であったはずです。教師にとっても、生徒の目に余る行為があった場合には、ビンタの一つくらい食らわすくらいの実力行使が認められる、というのは当然のことだと思います。教える側と教えられる側には本質的な違いがあるのです。

信念は揺らがないもの

 橋下市長も、最初は、自らが体育会出身だったこともあり、教師による暴力をある程度容認する姿勢を見せていました。ところが、自殺した生徒の家に弔問に行ったあたりから、「暴力は100%認められない」というように変節しました。ちょっとしたきっかけで、それまでの考えが変わったら、その途端に行政の政策が180度変わるというのでは、行政のトップとしてあるべき姿とは言えません。自分の信念というものは、日頃の研鑽の中から自然に醸成されてくる揺らぎのないものであって、ちょっと何かを見たり聞いたりしたら、急に、考えが変わってしまうようなものは信念とは言えません。
 人間ですから、考えが変わるのは構いませんが、変わったとたんに「全員右向け右!」では、恐怖政治になってしまいます。これでは部下は、支配者の顔色ばかりを窺うことになってしまいます。
 今回の橋下市長の一連の行動、やはり、「殿、ご乱心でござるぞ」と言わざるを得ません。(H25・1・22記)

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