だんだん生きにくくなりますねえ
だんだん生きにくくなりますねえ
みなさん、今の世の中、何だかだんだん息苦しくなってきたなあ、なんて感じることありませんか。これまでは大目に見られてきたことが、まあまあでは済まされなくなってきた。私には、そんな気がするんです。こんな抽象的な言い方では分かりませんよね。
例えば、お酒です
このお酒。昔は、と言っても私の学生の頃の話です。当然、未成年です。でも、酒なんて1年生の時から大っぴらに飲んでました。何の罪悪感もありませんでした。周囲の学生も、隠れてこそこそなんてことは全くありませんでした。つい最近まで、大学生が一気飲みをして急性アルコール中毒になった、なんてことがニュースになったりしていました。
でも、こういうことがニュースになったりすると、とたんに、規制が厳しくなるんですね。大学側でも、校内での飲酒は一切禁止するとか言いだします。法律の建前は、未成年者の飲酒を禁じているからです。そのうえ、どこかの大学の医学部の先生なんかが出てきて、「肝臓の機能が未発達の未成年者が飲酒をすると、急性アルコール中毒になるなど肝臓に障害をもたらす」とか、もっともらしい解説をし、規制の正当性を援護します。
確かに酒は、未成年者飲酒禁止法で一律禁止されていますが、高校を卒業し、月給をもらって働いている社会人に酒飲むななんていう法律、どうして必要なんでしょうか。大学生だって、もう十分に分別のある年齢です。そもそもわざわざ法律を作ってまで禁止する必要などあるのでしょうか。
今、テレビ局や新聞社で働いているマスコミの人達。学生時代、本当に一滴も酒を飲まずに過ごして来たのでしょうか。いや、自由に飲んでたよ、と言うなら、なぜ、「今の法律ちょっとおかしいよ」とは言わないのでしょうか。
最近は、酒を飲んで運転することに対して、極めて厳しくなりました。でも、僅か10年か15年ほど前までは、それほどの罪悪感はありませんでした。居酒屋に、客用の駐車場があるのは当たり前でした。いや、駐車場がなければ商売が成り立たなかった、といってもよいでしょう。少々の酒なら、運転しても、誰も咎めることはなかったのです。
ところが、飲酒運転によって大きな事故が起こると、とたんに法律の改正がなされたりして、厳罰化が進みます。酒を飲んで運転するなんて言語道断、重大犯罪だ、と社会は一気に罰則の強化を求めます。個人差もありますが、私など、コップで1,2杯くらい飲んだって、運転に影響なんてありません。勿論、厳密な医学的見地からすれば、反射神経が多少鈍っていることは事実でしょう。でも、多少のことは大目に見るということも社会の潤滑油として必要なのではないでしょうか。車のスピード違反、今は厳密には取り締まっていません。40キロ制限のところを40キロで走る車はめったにありません。80キロ制限の高速道路を80キロで走られたら、後ろの車はイライラするでしょう。要するに、今は大目に見られているのです。
ところが、飲酒運転に関しては、破廉恥罪をしたかのような扱いなんですね。厳罰化の傾向は、大きな事故が起きるたびに強まり、今は、コップ一杯飲んでも酒気帯び運転として、10万円程度の罰金をとられるようです。私の知人で、お酒を飲んだ後、車で帰ったら、50万円近くの罰金をとられたなんていう人がいます。これでは車で居酒屋には絶対に来られません。街の飲食店に閑古鳥が鳴くのは当然です。酒気帯び運転に対して、余りにも重い罰則をかけすぎているのではないでしょうか。酒は、社会の潤滑油の役割も果たしています。極端な規制は、社会を生きにくくさせるばかりだと思うんですがねえ。
シートベルト
シートベルトなんていうものも、最初の頃は、それほどうるさく言いませんでした。でも、時間の経過とともに、取締りが厳しくなりました。ネズミ捕りのように張り込んでいて、シートベルト専門に取り締まるなんてこともあるそうです。
このシートベルトも、最初は、運転手と助手席の人だけに義務付けられていました。これまた、時間の経過とともに、後部座席の人もシートベルトを義務付けられるようになりました。
あれよあれよと言う間に、今度は、観光バスでもシートベルトをして下さい、なんてうるさく言われるようになりました。どんな制度もそうですが、最初は、抵抗のないように柔らかく始めるんです。「協力要請」なんて体裁をとりますが、いつの間にか、道交法が改正され、義務化されてしまうんですね。観光業者も、警察から道交法違反だと言われれば、従わざるを得ません。観光客からすれば、観光旅行に行ってまで、シートベルトはないだろう、と反発したくなるのは当然です。
一番ひどいと思うのは、6歳未満の幼児でもシートベルトが義務付けられていることです。1歳や2歳の赤ん坊にまでもチャイルドシートを義務付けるなんて、もう正気の沙汰ではありません。第一、オシメも取れていないような赤ん坊は、聞き分けがありません。なだめすかしても、泣きやまないこともあります。そういう幼児を、無理やり座席に縛り付けることを義務付けるなんて、非常識の極みです。
せいぜい公権力が言うなら、「後ろの座席で抱っこしてあげて下さい。チャイルドシートのような便利なものがありますから、そういうものも活用して下さい。」程度でいいはずです。
私にすれば、道交法の厳格化は、警察OBの食いぶち探しの道具にされているような気がしてならないのです。事故が起きそうもないようなところでスピード違反の取り締まりをするのも、違反者を送りこまないと、研修所教官の飯の食い上げになるからです。警察が「チャイルドシート義務化」と言ったら、「警察OBがシートベルトメーカーに天下っている」と疑ってほぼ間違いありません。
集団登下校
私は、小学校の頃、1人で下校するのが楽しみでした。今日はどの道を歩いて帰ろうか、とワクワクしたものです。天気のいい日は田んぼの畦道を歩いたり、柿のなる時期は、柿の実のなっている家の前を通るコースを選択したり、大相撲の時期は、テレビの見られる家を通るコースを選択します。水が飲みたくなれば、井戸水の飲める家の前を通る、という具合です。どこの家に何があるかが分かっていたんです。
ところが今は、団体での集団登下校です。しかも1列縦隊で、「前へ習え」式の行進スタイルです。私がこういう集団に放り込まれたら、発狂してしまうのではないかと思う位、窮屈な風景です。
これも、登下校中の交通事故防止が目的のようです。大きな事故があると、必ずと言ってよいほど、システムの見直しが行われます。でも、不思議なことですが、最近はこの集団登下校の列に突っ込んで、逆に大事故になるという事例が後を絶ちません。
普通は、ここで、集団登下校は、むしろ危険が大きいのではないか、という疑問が呈されるはずなんです。確かに一時的に疑問は提起されますが、システムを変えようということにはなりません。集団登下校は「絶対正義」として揺るぎがないんです。一度、当事者である生徒に、本音を聞いてみるべきではないでしょうか、集団登下校は、親や教師が考えた大人側の押しつけの論理に過ぎないからです。なぜなら、子供達から「集団で登下校させて下さい」という要望はありましたか?
ごみの分別処理
ごみ出しも、高齢者世帯にとっては難題となりつつあります。嘗ては、ごみなんて、燃えるゴミと燃えないゴミの区分くらいしかありませんでした。しかし、今はこれらのほかに缶やペットボトル、紙や布、有害ごみ、粗大ごみ、プラスチックといった区分があり、それぞれごみ出しの曜日も細かく定められています。
自治体によっては、34種類、28種類、26種類なんてところもあります。34種類に区分するなんて、一体どのように区分するんでしょうか。余りにも異常です。
でも、この規則に従わないと、ごみを持って行ってくれない。その上、最近ではこれらの分別の規則に従わない者がいるから、ごみの「開封検査」までする、という自治体も増えているというんです。
私もペットボトルを出そうとしたら、妻に叱られました。キャップは別、更に飲み口のところについている白くて堅い犬の首輪のような部分、ここをペンチなどを使って取り外さなければいけないんだそうです。しかも、容量を減らすため、足でゴンゴン踏み潰せというんです。
こんな状態ですから、妻に先立たれたら、もう完全にアウトでしょう。たががごみを出すだけのことで、こんなに息苦しくなってしまった社会、どこかおかしいと思いませんか?
★このごみ問題に関する、私の意見は→こちらから
言葉狩り
昔、当たり前に使っていた言葉が、今は差別用語として使えなくなったものが沢山あります。めくら、つんぼ、どもり、おしなどは、まあ何となく理解できます。でも、差別用語一覧なんかを見ると、人夫、土工、漁夫、農夫、用務員なども差別用語になるんだそうです。これらは、それぞれ作業員、建設労働者、漁船員、農業従事者、公務員と呼ばなければいけないんだそうです。魚をとる人を漁夫と言って、何が差別になるんでしょうか。漁船員と言われると、大型漁船の乗組員しか思い浮かびません。畑で働いている農夫を農業従事者と呼べなんて、あまりにも杓子定規すぎませんか。
笑ってしまうのは河原こじきは「役者」、ポン引きは「客引き」と呼ばなければ差別に当たるとのことです。では、本物の役者は、何というのでしょうか。いつの間に河原こじきと本物の役者が同じ呼称になってしまったんですね。
ポン引きというのは、うどん屋や蕎麦屋など、普通の商売の客引きと区別し、いかがわしい商売の客引きのことを言います。これらもすべて「客引き」にしたんでは、普通の商売の客引きといかがわしい商売の客引きの区別ができなくなってしまいます。しかも差別用語ということで、小説の用語にも使えないとなれば、文化の厚みもなくなろうというものです。
小説にも使えなくなることの証拠に、昔の小説に「お断り」と称して、「本文中には差別的用語が使用されていますが、文学的価値を尊重して云々・・」と、わざわざお断りの文字が記載されていることでも分かります。
このように、やたらと言葉にうるさくなったのは、差別に反対するとかの名目で公共事業を優先的にとる、どこかの同和団体あたりの主張をそのまま受け入れたんでしょうか。それとも進歩的と称する左翼系の団体の主張を取り入れたのでしょうか。何でも平等、一切に差別が許せない、という狭量な臭いがプンプンと感じられます。
どうして人夫や土工が差別的用語になるのでしょうか。漁夫や用務員がどうして差別的用語なのでしょうか。用務員なんて、幼い頃から馴染んだ、温かみのある用語のような気がしてなりません。
このように、言葉に敏感になるのはある程度は許されますが、逆に、差別用語でもないのに、呼称を変えられている例もあります。強姦がその例です。女性に暴行脅迫を加え、性的陵虐を加えても、マスコミは「いたずら」と表現するんですね。幼児が砂場でいたずらをするのと同列の用語にするなんて、随分ひどい話です。誰の人権を守っているのでしょう。
また、川崎市の13歳の中学1年生を殺害した18歳の少年。殺し方が、イスラム過激派のように極めて残忍。こんな人間が、20歳未満というだけで、顔も名前も住所も全くわからない。こんなロクデナシの人権だけがしっかり守られる世の中って、どこかおかしいと思いませんか?
自転車も免許制に?
自転車に乗るのも、段々と規制が強まりそうな予感がします。テレビなどで、自転車が危険だ、というキャンペーン番組が時々見られるからです。
だいたいこういう報道がなされる時は、警察庁などお役所が後ろで糸を引いている可能性が大です。役所は、権限が増えること、予算が増えることは歓迎という本能がありますから、ここでも何らかの権限増、予算増に結び付く可能性があります。
多分、将来的には、自転車に乗るのも許可を義務付けるか、少なくとも、講習の受講を義務付ける可能性があります。講習を義務付けるだけでも、警察のOBの退職後の職場が大いに広がります。講習会場の整備費用の獲得と教員の増が見込めるからです。自転車は国民のほとんどが乗りますから、講習会費と称して、ひとり1,000円ずつ徴収しても、500億くらいの収入が見込めるはずです。
現在の道交法の規定では、自転車は歩道ではなく、「車道の左側」を通行しなければいけない、ということになっていたんですね。私は、迂闊にもよく知りませんでした。でも、ドライバーならよく分かると思いますが、自転車が走っているそばを追い抜くのはかなり気を使います。特に、対向車があるときに、自転車の脇を追い越す場合は、ひっかけないかと緊張します。自転車に乗る人も、若者ばかりでなく、高齢者もいますから、このようなケースで、ヨタヨタモタモタした自転車の横を抜ける時は余計に緊張します。
自転車に乗っている立場からしても、すぐそばを車に追い越される時はかなり緊張します。特に、大型トラックなどに追い抜かれる時は、風圧も加わり、ヒヤッとします。
自転車道が整備されていない今の状況下で、「自転車は車道を走れ」という道交法の規定、かなりおかしいのではありませんか?
最後に
世の中のさまざまな規制には、一定の規則性があります。
①先ず、最初の規制は、かなり緩やかな段階からスタートします。「協力要請」がその典型です。あまり抵抗がなさそうと感じたら、徐々に規制を強めていきます。いきなり観光バスの乗客にシートベルトを着用しろ、などとは言わないんですね。最初は、乗用車の運転手と助手席だけ、というところから始め、最後は、乗客すべてに及ぼす、というやり方です。
そう、「真綿で首を絞める」というやり方です。決して、最初からきつくは締めないんです。最初は「触れるくらい」のところから始め、徐々に徐々にきつくしていき、気付いた時は既に手遅れ、という手法です。「茹で蛙」ということです。私たちは、何度このやり口で騙されてきたことでしょう。一般消費税の導入時も、最初は3%なんて可愛らしいことを言っておいて、気がついた時には、8%なっていました。10%も目前です。いずれ、20%になることも覚悟しておいてくださいね。
②そして、一度、導入した規制は、絶対に元には戻さない。いわば「不可逆」です。集団登下校だって、一度導入されたなら、二度と自由な登下校には戻さないのです。
このように、新たな規制やシステムが構築されると、あとで「これはおかしいよ」ということに気づいても、決して元に戻そうとはしない。ごみの分別処理などは、その典型と言ってよいでしょう。分別して持っていっても、最後は、同じ焼却場の同じ施設で焼却するだけですから、分別することの意味はない、ということが分かっても、行政側は、決して元に戻そうとはしない、というのがその例です。
なにせ、「環境」という用語を使ったら、もう誰も反対できない、という雰囲気ができています。ペットボトルリサイクル率85%なんて聞くと、「おおそうか、すばらしい」と言うだけで、その先は追及しません。日本の統計では「燃やしてもリサイクル率に含まれる」、という?が3つも4つもつきそうな現状なのに、です。燃やしても「サイクルした、日本はリサイクル優等生」と詭弁を弄するのは、役人が予算を取る便法、常套手段です。役人が「リサイクルした」と言ってくれれば、日本人は疑うことをしない国民性ですから、「自分はリサイクルに協力した」という気分に浸れるのです。
本当は、「これおかしいよ」という声が大きくなれば、制度変更、システム変更につながるのですが、皆それぞれに忙しく、細かいことに首を突っ込みたくない。この事なかれ主義が、今の日本を少しずつ住みにくく、窮屈にしているのかもしれません。
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