時事寸評 書評コーナー

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今生は、涙が出るほど便利で有難い世の中です

今生は、涙が出るほど便利で有難い世の中です

天と地ほどの差がある生活環境

 前回までは暗い話が多かったので、今回は少し明るい前向きの話をしてみたいと思います。
 今、私たちの身の回りを見まわして、このような状態が当然だ、当たり前だと思える人は極めて若い人。少し便利になったかな~というレベルに感じる人は、もう少し若い人。ものすごく便利になった、天国のような生活だと思える人は、そろそろお迎えが来てもよいくらいの年齢の人です。
私は、そろそろお迎えが来てもおかしくないくらいの後期高齢者なので、今の世の中、本当に天国、涙が出るほどに便利で有難い世の中のように思えます。だから、毎日、「こんな生活をさせていただき、本当に有難うございます」と感謝の気持ちをもって生活しています。

戦後はみんな貧乏だった

マッカーサー

 私の子供のころ、すなわち昭和20年代は、まだ進駐軍が駐留している時代でした。進駐軍に捕まると逆さづりにされ、井戸に吊り下げられるぞなんて、大人から真顔で脅かされていた時代です。ですからジープに乗った進駐軍が来ると、慌てて藪の中に逃げ込んだりしたものです。
 敗戦直後ですから、日本国中貧しく、どこの家も裸電球1個のような薄暗い生活でした。その電球だって灯ればいい。毎週一日、日中は「電休日」というのがあって、電気の供給さえままなりませんでした。
 そんな時代ですから、ご飯の煮炊きはもちろん薪。釜で炊きます。薪に火がつくまで、杉の枯れ枝などに火をつけ、更に小枝にと順を踏んで火勢を強くする。火が消えぬよう火吹き竹を使い、という当然の生活の知恵がその当時身につきました。

DDT散布

 風呂を沸かすのも一苦労でした。もちろん、五右衛門風呂です。先ず、水を調達しなければなりません。両手にバケツをもって近くの川に水汲みに行きました。この水汲み作業が面倒なので、極力、風呂の水は代えず、10日くらいはそのまま使ってました。入浴中は暗くて分かりませんが、昼に見ると、表面が紫色にぴかぴか光っており、びっくりしたなんて記憶があります。風呂に入るのを敬遠していたせいか、ある時、異様に体がかゆいので、シャツを脱いでみると、縫い目に沿ってシラミがびっしりついていたなんてこともありました。
 シラミはもちろんのこと、ノミにも悩まされました。ノミというのは、大変な跳躍飛びで、跳ねたらどこに行ったか分かりません。やっと捕まえても、なかなか殺せない。爪先で思い切りこすりつけても、手を離すと跳んで行ってしまう厄介な生き物でした。

雨漏りだらけの仮住まい

 私の兄弟は男ばかりの5人兄弟です。男ばかりですから、色気は全くなし。着物など赤いものは一切なし。近所の5人姉妹と半分ずつ入れ替えてほしいと切に願ったものです。男3人やるから女3人ほしいなんて思ったものです。
 貧しい時代の子沢山。食べ物には不自由しました。周辺は農家ばかりですが、我が家は、獣医の家。父は、陸軍で軍医をしていたつてで、戦後、那須に引っ越したと聞いたことがあります。住むところがないので、一時的に村の公民館に住まわせてもらいました。公民館といっても、今の時代とは全く違います。雨が降ると、あちこちから雨漏りがし、洗面器やバケツ、小皿などを総動員して雨漏りに対処したものです。
 那須というのは、避暑地にもなるくらいですから、冬季は寒さが厳しい。厳冬時、小さな炭火の炬燵に家族全員が布団を向け、寝ているときに炬燵が燃え上がったなんてこともありました。

しばしば寝小便を

日の丸

 少し長じて、小学5年くらいだったと思います。しばしば寝小便をしました。余りに寒かったせいだと思います。布団と言っても、今のようなフカフカの羽毛布団とは違います。文字通りのせんべい布団。敷布団1枚に薄いペラペラの毛布が1枚。それに掛け布団1枚のみ。寒い那須ですから、足を入れるとヒヤッっとし、全身に寒気が伝わります。先ず、足先を突っ込み、少し暖かくなったら少し前進。全身を布団にいれるのに5分くらいはかかったと思います。
 そういう寒さですから、夜中にしばしば寝小便をしました。でも、寝小便をすると、軍隊帰りの父に厳しく叱られます。夜中、寝小便をして腰のあたりが生暖かくなると、急に目が覚めます。慌てて敷布団を持ち上げます。「該当部分」だけです。そのままにしていると、畳に「証拠」が残り、父にこっぴどく叱られるからです。ですから、寝小便をしたときは、いつも該当部分が畳に接しないよう持ち上げ、該当部分を抱えるように、エビのように丸まって寝たものです。

食生活も貧しかった

画像の説明

 村の公民館から脱出し、新居に移りました。新居と言っても、田舎の古家です。居間は板張りで、冬季は羽目板の隙間から雪が吹き込み、筋状になっているような家でした。
 食事は、いつも雑炊でした。雑炊というのは、麦飯に野菜などを混ぜ、水をたっぷり入れて炊いたものです。要するに、普通の白米が食べられないので、水や菜っ葉などをいれてボリュームを増やしたものです。私は、食事というのは、どこの家でも雑炊が普通だと思っていたので、食事時間に兄弟を呼びに行くときは「雑炊だぞ~!」と呼ぶのを常にしていました。

雑炊

 そんな食生活ですから、畑では、量が多く収穫できる麦(大麦)やサツマイモ、トウモロコシを栽培していました。麦は庭で脱穀し、収穫した麦を廊下に備蓄していました。サツマイモは、枝を落とし、収穫した後、地下に保存していました。3mくらいの深さの縦穴に、更に横穴を掘り、そこに蓄えるんです。そうすると一冬くらい十分に保存できます。でも、嫌だったのは、穴倉にスイッチョやコオロギなど、さまざまな虫がついていたことです。サツマイモを取りに行くと、これらの虫との遭遇は不可避で憂鬱でした。
 嬉しかったのは、トウモロコシです。蒸したてのトウモロコシは、とりわけおいしかった。当然、奪い合いでした。ですから食べる前に、5等分にし、じゃんけんでとる順番を決めていました。ひとり平均3~4本くらいだったと思います。それでも私にとってはぜいたく品でした。

娯楽はラジオ中心

紅白歌合戦

 娯楽としては、ラジオが中心でした。ラジオから流れる「少年探偵団」なんて番組を、耳を澄まして聞いたものです。テレビのない時代ですから、実像はすべてラジオの解説で想像するしかありません。当時もNHKの紅白歌合戦がありましたが、音声のみです。出演者の衣装も、宮田輝など解説者の説明で、想像するしかありませんでした。それでも、宮城まり子の「ガード下の靴磨き」なんて歌は、今でも強く印象に残っています。
 困ったのは国際放送です。当時、メルボルンオリンピックというのがあり、ラジオに耳をつけて聴くんですが、当時の国際放送は、大きくブレます。音声が波のように大きくなったり小さくなったり、本当に聞きにくい。それでも必死になって聴いたものです。
 時代が変わり、私が中学に入る頃にはテレビも普及してきました。普及したと言っても、村でテレビのある家は、電気屋とあと数軒だったと思います。
 私はプロレス中継に夢中だったので、毎週金曜日夜8時のプロレス中継を見るため、自転車で街中の電気屋に見に行ったものです。テレビの前は、黒山の人だかり。道路に聴衆が溢れ、交通遮断。でも、車なんてめったに通らないから、問題になりませんでした。人気選手はもちろん力道山、それにアントニオ猪木、豊登。外人力士はルーテーズ、シャープ兄弟、ブラッシャーなんて選手がいました。
 一番困ったのは、夜道を自転車で走る辛さ。当時の道路は砂利道です。砂利道を走ると足(タイヤ?)を取られる。よって、轍(わだち)の部分を走るんです。時々通る車のヘッドライトを背に、猛烈に走る。車が行き過ぎると真っ暗になり、また運転に難渋する。しかも、毎回必ず、放し飼いの犬が猛烈な勢いで飛び出してきて、吠えまくる。これが一番嫌でした。今でも犬が大嫌いなのはこのせいです。

長じて今の生活は

竜宮城

 さて、くだらない話を長々としてきたのはなぜか。それは、今の生活との対比が明確になると思ったからです。当時の、不便な生活を送ってきた私から見ると、今の生活は、文字通り「天国」にも匹敵する豪華な生活なのです。
 水道の蛇口をひねれば水は溢れるほど出る。冷たい水でも暖かいお湯でも自由自在。もちろんバケツで水汲みに行かなくてもいい。薪で風呂や竈の焚き付けをしなくてもいい。
 電気やガスも24時間、絶え間なく供給される。電休日なんてとんでもない。ガスストーブにしたら、灯油の買い出しも不要となり、年間を通して、暖かい生活をすることができる。もちろん、寝小便の心配もない。
 テレビも一家に一台どころか、私のような小市民でも、一家に4台です。白黒テレビに、カラーのプラスチックのカバーをつけて、カラーっぽく見せるなんて小技を使う必要もない。テレビを点けるのに、その都度テレビに近づき、チャンネルを回す必要もありません。それどころか、最近は目が肥えて、地上波テレビはほとんど見ず、もっぱらYouTube漬けになっている始末。見たい内容が豊富だからです。
 外に出れば、街はきれいに整備されています。今、日本全国、舗装されていない道を見つけるのはほぼ困難です。ほとんどの家にはマイカーもある。最近では、郊外の新築戸建て住宅は、マイカー2台の駐車スペースが常識のようにさえなっています。
 コンビニやスーパーもふんだんにあります。徒歩又はマイカーで必要な食料品や生活用品はいつでも手に入ります。ご飯の度に「雑炊だぞ~」と叫ぶ必要もなくなりました。

生活は劇的に変化した

 このように、私たちの生活は文字通り劇的に変化しました。77年間生活した私でも、幼少期と今では、文字通り月とスッポンほどにも生活は向上しました。
 この変化を今の若い人たちは、当然と受け止めるかもしれません。生まれたときから、このような生活があったからです。でも、本当に貧しかった時代を知っている私たちの世代からみると、この変化は、余りにも劇的です。その変化を見ているからこそ、今の時代を「本当に天国のような幸せな生活」と思えるのでしょう。
 感謝の気持ちから、自分なりに、行うべきことは決めています。風呂を洗うこと、ゴミを集積所にもって行くこと、布団をあげること、毎日漬物(ぬか漬け)をつけることなどです。もちろん、庭の手入れも私の仕事です。庭と言っても猫の額程度ですからたかがしれています。買い物にもついていきます。荷物運びのシェルパ役です。妻に先立たれたら一番困るなと思うのは、ゴミの分別です。1個のプラスチックのボトルでさえ、三つに区分し、更に、ボトルを踏みつぶせというんです。これも地球温暖化という似非科学のせいです。

今後私たちはどう生きるのか

憧れの国

 最初からスマホがあるような時代に生まれた若者たちにとって、これからの時代、どのように生きることになるのでしょうか。生まれたときから4Kスマホがあり、今後さらに5K、6K、7Kへと進化していくでしょう。生活のさまざまな分野で、進歩発展は着実に進んでいくはずです。より便利に、より高性能にというのは、人間の本性だからです。
 他方、多少、心配もあります。最初から便利で豊かな生活があれば、感謝の念は芽生えない。逆に、不満ばかり持つようになる可能性があります。
 私の子供のころ、アメリカの生活は桃源郷のように見えました。大型のマイカーをもち、家族がリビングでソファーに座り、団欒しながらテレビを鑑賞する。そんな絵柄が眩しく見えたからです。でも、50年以上も経過した今のアメリカ、当時より格段に良くなったのでしょうか。
 毎年銃の乱射事件があり、BLM運動と称する暴力組織が猛威を振るっています。警察などいらない、と叫ぶ活動家に賛同する知事さえいます。
 LGBT運動やポリコレなども、生活を生きにくくしています。今次の米大統領選挙では、露骨な不正選挙も行われましたが、それを是正しようとする勢力と不正が可能なように現行制度を維持しようとする勢力がしのぎを削っています。国内での対立が先鋭化しているのです。バイデン政権は、南米からの不法移民さえ積極的に(毎年6万2,500人!)受け入れようとしています。彼らは民主党政権の支持者になるからです。国が壊れていく前兆だと言ったら言い過ぎでしょうか。嘗て私たちの憧れだった国が、この体たらくなのです。
 世界を見渡せば、これまで後進国だと思っていた国々が、経済発展し、生活水準も上がってきました。日本への観光で爆買いするのは、それだけ日本は物価が安い、換言すれば賃金の安さとみることもできます。
 このような日本にあって、一度コロナ騒動に巻き込まれると、路頭に迷う失業者が街に溢れているというのも現実です。日本はそれだけぜい弱な社会になったとみることもできます。左右の対立が激化し、占領軍によって押し付けられた憲法を、ただの一度も変えることができない。軍事力が弱まった時期に北方領土を奪われ、竹島を奪われ、そして今まさに尖閣諸島にも危機が迫っています。自分たちの領土を自分たちで守るという気概に、翳りが出ているように思えてなりません。
 これからを生きる若者世代は、豊かな消費生活を生きる一方、人と人との接触の機会が少なくなり、精神的に満たされない喪失感の中を生きることになるのかもしれません。
 でも、心の持ちよう次第で、今の時代ほど豊かに過ごせる時代はありません。そのためには、中国のような横暴で覇権主義的な敵性国家から、何としてもこの大事な日本を守り抜かなければなりません。「平和憲法」と称する占領軍の作った憲法を大事に崇め、一字一句も手をつけないというこの国の異常性にも目覚める必要があります。
 若い世代の人たちには、どうぞ、毎日を楽しく、心豊かに過ごしていただきたいものです。(R3・5・5こどもの日に)

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