LGBT法制化は時期尚早です
LGBT法制化は時期尚早です
秘書官の暴言ごときで急ぐ問題ではない
岸田首相の秘書官であった荒井勝喜氏の差別的発言を機に、いわゆるLGBT法(性的志向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する法律(案))が一気に加速されそうな勢いです。荒井秘書官が述べたのは「(同性カップルが)隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と述べた、というものです。本心から言えば、私も全く同じです。男同士がキスをしている映像や写真など見たくもありません。若い頃、東京の映画館で映画を見ているときに、男の人に手を握られた時には飛び上がるほど、強い不快感を覚えた記憶があります。ですから、いやなものは嫌なのです。
しかし、個人的に嫌だという思いと、それを口に出して言うことには違いがあります。同性愛を嫌だという感情を居酒屋談議でするのはありだとしても、首相秘書官という立場で発言することは同じではありません。首相秘書官は公職であり、その発言の重みは我々庶民のものとは全く異なるからです。ましてや新聞記者などマスコミ相手に話をするときは、よほど慎重に話をする必要があります。
今回の荒井秘書官は「オフレコ」を条件とする場で発言したものですから、本来は記事にすべきものではありません。オフレコを条件としているのに、それを記事にすることは明らかに「記者道」に反します。これを記事にした毎日新聞記者は「記者道」に反していますし、これを記事にすることを認めた上層部も、落ち目の三度笠で、自尊心もプライドもなくした三流新聞のなせる業ということでしょう。ですから、岸田首相も、「この発言はオフレコを条件に発言したものであり、個人的な心情を吐露したものと考える。このようなオフレコの場での発言を公にするということになれば、マスコミにとっても不利益になる。」として、問題にしないということも可能でした。しかし、そうしなかったのは、あまりに内閣支持率が低く、これ以上の支持率低下を避けたかったということでしょう。
IGBT法案には問題が山積
そもそもこのLGBT法案なるもの、その内容を読んだことのある人どれくらいいるでしょうか。私は一通り読んでみました。その感想は、「ヒャ~、こりゃ大変だ。こんな法律が通ったら、役所はもちろん、学校も職場もそして我々国民も大変だ~」というのが率直な感想です。余りにも息苦しい法律の体裁になっているからです。
まず、国や地方公共団体それに事業者は、「自ら設置する施設の構造の改善及び設備の整備、関係職員に対する研修その他必要な環境の整備に努めなければならない。」(第5条)なんて規定、これを真面目に実施しようとすれば大変なことになりそうです。
例えば、トイレです。男女別になっているトイレは差別だということになれば、別途、トランスジェンダー用のトイレを作らなければ差別だ、なんてことになりかねません。いや、うちは民間企業だから関係ない、では済まされません。「事業者」は商業その他の事業を行う者、という定義になっていますから、中小企業の経営者も、コンビニやガソリンスタンドの経営者もみんな「事業者」として、「自ら設置する施設の構造の改善や設備の整備」が求められるのです。
いや、ウチは事業者なんてそんな大げさなものではない、と言っても逃れられません。「使用者」という概念もあるんです。「使用者」とは、「労働者を使用する者」とされており、アルバイトを雇うだけの経営者も、使用者であることに変わりはないのです。この使用者は「労働者の募集や採用」に関し、「性的指向又は性自認にかかわりなく均等な機会を与えなければならない」など、厳しく定められているのです。多分、性別欄に男か女かを書く欄を設けることも禁止されるのではないでしょうか。目の前の面接者が男なのか女なのか分からない、なんてこともありうるのです。面接時に「あなたは男ですか女ですか?」なんて聞こうものなら、大変な問題になりかねません。
この法案によれば、主務大臣はこの使用者が守るべきものとして「使用者対応指針」を定め、更に「使用者実施指針」なるものを守ることを求められています。使用者は、これらの対応指針や実施指針を守らなければならないのです。
しかも、これらの指針や実施指針を守らない場合には、守るよう勧告され、勧告に従わない場合には、公表するとしています。更に、これらに従わなかった場合には20万円以下の過料という罰則までついているのです。
学校などはより一層の厳しい規制
上には事業者や使用者につて述べましたが、学校などにも同様の規制がかかってきます。学校長等は主務大臣が定める「学校長等実施指針」なるものに従い、教職員、児童、生徒、その他関係者に対し、差別解消のための研修の実施や相談体制の整備など、より厳しい体制整備が求められているのです。
このことは何を意味するのか。学校教育で、「差別解消」と称する研修の時間や差別だと訴える人の相談窓口を設けるなど、具体的な対策を講じることが求められるようになるでしょう。
特に、学校においては、トイレはどうするのか、男女別のほかにLGBT用の(?)トイレを作らなければならないかもしれません。水泳の授業も、体は男だが、心は女だというトランスジェンダーの人も、「女性として」参加させなくてはならなくなるかもしれません。また、これまで女性徒だけを集めて行っていた保健体育の「妊娠や生理のしくみ」といった授業も、これらの「女性」の参加を認めなければ差別だ、ということになりかねません。
そもそも論として
私は、このようなLGBTに関する問題は、法律を作って禁止や保護をするということで対処するべきではないと思っています。つまり、ホモだろうがゲイだろうがレスビアンだろうが、本人が好きならば、「勝手にどうぞ」ということで対応すべき問題であり、「法律を作ってこれらの人たちの権利を守らせる」という問題ではない、と考えるからです。
そもそも論として、日本は、同性愛に寛容な国でした。「男色」は古代から存在していたのです。織田信長は、秘書的な役割も負った森蘭丸という小姓と男色の関係があったという話は私の中学生の頃の漫画で読んだ記憶があります。前田利家にも男色のうわさがあります。また利家の次男の信雄も、美少年の処刑をやめさせ重用するほど男色に入れ込んでいたとされています。武田信玄は、思いびとの弥七郎という小姓に手を出したことがばれ、釈明する手紙を送っていたとされています。甲斐の虎と呼ばれた勇ましい姿からは想像もつきません。
独眼竜・伊達政宗も恋人の小姓に当てた恋文を残しています。徳川家康にも男色のエピソードがあります。家康は本来年上の女性を好んでいましたが、『甲陽軍鑑』によるとそんな家康も忠臣の一人である井伊直政の美しさに魅了され関係を持ったとされています。家康の後を継いだ秀忠や次男の秀康、十男の頼宣など家康の息子たちも男色の世界に魅入られていました。武士だけでなく、俳句で有名な松尾芭蕉も、弟子と一緒に旅に出ることが多く、その弟子のふたりと恋仲だったと言われているのです。
このように、日本の歴史上、男色はごく一般的な事象だったようで、庶民の間では決して男色がタブー視されていたわけではないのです。要するに、そんなことは個人の好みの問題であり、法律で啓蒙したり研修したり、まして過料まで課して取り締まるという問題ではない、ということです。
難しいトランスジェンダーの扱い
一番難しいのは、トランスジェンダーの扱いでしょう。トランスジェンダーというのは、心の性と体の性が一致しない人を指すとされています。医学用語の「性同一障害」とは厳密な意味では異なるようです。私はこれを聞いただけで頭が混乱し、何が何だか分からなくなります。
要するに、持って生まれた体は男だが、心は女だという場合、この男(女?)が女風呂に入ってきた場合、女性たちが「キャー」と叫んだら、「差別だ」ということになるのでしょうか。また、アメリカの競泳でこのトランスジェンダーの人が女子500ヤード自由形で優勝したなんてことが話題になりました。「心は女だ」と主張すれば、女になれるなら、女風呂どころか、女性の刑務所で女性犯罪者と同室になることもできる、ということになります。現実に、イギリススコットランドで、レイプ犯が自分は女性だと主張して女性刑務所に収監されたなんて「事件」もありました。
憲法改正も必要
LGBT法が必要だというなら、先ず、憲法を改正すべきです。憲法24条には、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し・・・」と規定されています。更に、夫婦の一方が死亡した場合には相続などの問題が生じますが、同条2項で、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定しています。婚姻をするにも離婚するにも財産を分けるにしても、憲法は「両性」つまり男と女がいることを前提にしているのです。
差別をやめろ、という規制法を定めるなら、この「男と女」の存在を前提とした法制度を根本的に見直すことが必要なのではありませんか。つまり、世の中には男と女という存在以外に、中間、あるいはその外側(?)に男女以外の存在がある、ということを前提に憲法を見直す必要があります。その基本的な議論を抜きにして、下部法たる取締法だけを先行させるというのは法治国家のあるべき姿ではありません。
ダイバーシティの偽善
昨今は、世界的に、グローバル化だのダイバーシティだのと、何でも世界が同じでなければ気に食わない、という思想が蔓延しています。しかし、そもそもダイバーシティとはどういう意味でしょうか。これは「多様性を認める」という意味のはずです。つまり、「私の性的指向や性自認を認めよ」ということは、逆に「私がそれは好きではない。勝手にどうぞ」という立場も認める、ということです。相互に認め合えばよいことであって、研修で教えてやるだの、従わない者には罰則を加えるだの、というのは決して多様性ではありません。
それぞれの国にはそれぞれの歴史と文化、伝統があります。これらの歴史や伝統、文化を尊重することも、多様性でしょう。歴史や伝統に育まれた文化を認めないというならば、男だけで演じる歌舞伎はけしからんということになり、女性だけで演じる宝塚もけしからんということになります。男だけでやっている相撲も、男女混合でなければいけない、ということになります。
全国の温泉、銭湯、健康ランド等は閑古鳥
こういう問題を法律を作って強要することになれば、今後は、女性トイレや女湯に男が入り込み、「キャー」と騒いだら、「僕は男性器がついているが、性自認は女だ、キャーと言ったのは差別だ」ということになりかねません。こんな法律が通ってしまえば、いずれ、職場や学校など社会のあらゆる場面で、絶えざるもめ事、衝突が頻発するのは必定です。社会の分断が生じるのです。いや、このような法律の成立を目指す左派勢力が目指しているのは、まさしく社会の分断であり、既存の価値観、歴史と伝統の破壊なのです。女系天皇を認めよと主張することも、まさしくその同一線上にあります。
特に、全国にあまたある温泉や銭湯、健康ランドと言ったお風呂を経営の中心においているような事業には大打撃を与えることになるでしょう。なぜなら男性器をつけたまま女湯に入ることも許されることになるからです。これまでは直ちに警察に拘束される犯罪行為ですが、この法律が通れば、逆に「キャー」といって騒いだ女性たちや温泉の経営者が罰せられることになりかねないのです。
これは何を意味するか。「あの温泉を潰してやろう」ということも簡単にできてしまう、ということです。不届き者がスシローでコップなど、食器を舐めましただけでも客離れが生じたように、男が「私は心は女だ」と言い張って女子風呂に入ったりすれば、女性客が寄り付かなくなる可能性があります。つまり、悪意を持った人物を咎めることが困難になってしまうのです。
私がこのような温泉宿や銭湯などの経営者なら、むしろ旗を押し立ててでも断固反対するでしょう。なぜ、全国のこれら施設の経営者たちが猛反対しないのか、私にはまったく理解できません。
この法案の成立を強硬に主張しているのは、共産党や立憲民主党、すなわち福島瑞穂や蓮舫、辻本清美いった、やたら声の大きい左翼政治家が目立ちますが、自民党からも稲田朋美と言った有名政治家もいることも見逃すことができません。私たちは、日本を衰亡させる、このような悪法の成立を絶対に阻止しなければなりません。(R5・2・13記)
<参考動画>
▶▶▶SAGAWAチャンネル(米国におけるLGBT問題)
▶▶▶知らない方がよかった
▶▶▶男と女が隣で用を足す「歌舞伎町タワー」共用トイレに批判殺到
▶▶▶LGBT法案をめぐる松田学の見解
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