時事寸評 書評コーナー

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シベリア抑留者の回顧

★★★シベリア抑留者の手記

■橋本正男■■

(栃木県那須塩原市在住)

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≪筆者・叔父の紹介≫

 私の叔父橋本正男氏はいま95歳(令和元年4月に100歳になりましたが、今も元気です。)です。これほどの高齢ならば、家で寝たきりか、介護施設のお世話になっている方がざらにいるのではないかと思います。でも、叔父は、まだまだ元気です。天気が良ければ毎日のように畑仕事をするし、車の運転さえします(実は、この原稿をアップした後の昨平成26年、心配した家族によって、車の運転は止められてしまいました。)。2年ほど前からパソコンにも関心を示し、今盛んにシベリア抑留時代の文章をまとめています。
 この叔父は、戦後、ロシアによって、酷寒の地シベリアに抑留されるという不運を余儀なくされました。帰国後、私の父を頼って、栃木県西那須野(現在は、平成の大合併によって那須塩原市。当時は狩野村)の地に居を構え、結婚しました。私が小学生の頃には、道路工夫として砂利道の補修をする姿をしばしば目撃したことがあります。
 その後、一念発起。建築士及び土地家屋調査士の資格をとり、栃木県西那須野町で開業していました。5年程前まで、一級建築士であった長男と一緒に、精力的に仕事をこなしていましたが、その長男の早逝という不運に伴い、設計事務所を閉じ、現在は、隠遁の生活を送っています。
 私は、茶飲み話で、時々、シベリア抑留時代の話を聞くことがありました。それも極めて断片的なものです。その場限りの話で、特に気にも留めていませんでした。2年ほど前、パソコンに興味を示したので、冗談半分に記録に残すようすすめてみたのです。
 叔父はすっかりその気になり、私たちが那須に帰郷する都度、プリントアウトした文章を渡してくれるようになりました。これまでに6編ほどの原稿をもらっています。
 これらの原稿を眺めているうち、次第に私たち戦争の経験のない幸運な時代に生きた人間は、戦争というつらい体験をした時代の人達の貴重な体験を、何らかの形で引き継いでいく必要があるのではないかという責任感が芽生えるようになりました。あと数年も経てば、このような貴重な体験を語ってくれる人が日本にはいなくなってしまうからです。
 幸い私のホームページがありましたので、とりあえずここに掲載し、皆様にもご覧いただくようになれば、作者本人も本望ではないかと思います。
 なお、文中には、一部差別的な表現もあります。当時の抑留者の「率直な想い」を書き綴ったものでありますので、ここではなるべく筆者の意思を尊重し、敢えて原文のまま掲載させて頂くことをお許し頂きたいと思います。また、シベリアの表記も、当時は「シベリヤ」との表記も使われておりましたので、筆者の表記をそのまま使用しました。おって、読者に読みやすいよう、旧漢字は新字体に改め、句読点、コンマについても、最小限の加除をさせて頂きました。
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 右が私の父(故人)。左が著者です。父が東京の陸軍獣医学校にいた頃に弟である筆者が尋ねてきたときの写真とのことです。著者は、当時、商店に丁稚奉公をしていたのでしょうか。袢纏にマルト商店の文字が見えます。

シベリア抑留とは
第二次大戦後、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州や樺太、北方領土に侵攻し、日本軍の兵士ら57万5千人を連行し、主にシベリアなどで強制労働に当たらせたものです。シベリア抑留では、約5万5千人が、過酷な労働や飢えで死亡したとされています。

<<お断り>>
◆元陸軍飛行兵、木内信夫様の描かれたシベリア抑留時代の挿画が大変面白いため、このページへの掲載をお願いしたところ、ご快諾頂きました。記してここに転載させていただきます。木内様の描かれた漫画はこれ以外にも沢山ございますので、是非そちらのホームページからご覧いただくことをお薦めします。各国語でご覧いただくこともできます。⇒こちら

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わが戦争の思い出

補充兵として入隊

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 私は昭和16年7月16日、高田歩兵30聯隊に入隊した。当時、新潟の飯山鉄道の駅では、防諜上なるべく見送りは控えるようにとのことで、村の鎮守様の庭での挨拶は、一緒に入隊した島田宗一さんと2人だけ。彼は2回目の召集だったため、少ない見送り人だったが、それでも集まった人を前に元気よく挨拶した。その頃の予想では、勝ち戦の頃なので元気良く、出征したものは大概帰ってきた。しょんぼりと出かけたものは大概死んでしまったと囁かれていた。
 私は毎年夏バテをするので、その日も元気が出なかった。噂の通りだと私は間も無く死ぬことだろうと思ったので、何度も鎮守のお宮さんを振り返り、最後の見納めだと思ったものである。宗一さんは1年以内に戦死をしたらしい。部落の富沢先生が、部落の出征者全員にガリ版刷りの手紙を送ってくれたが、その中に書いてあった。
 村から10名くらいが同じ旅館に泊まったのであるが、元気の良い連中が早く戦死をしたようで、噂のようにはいかないようだ。
翌朝、宿の2階から外を見たら、道路から公園まで我々のように召集された若者が大勢いたのには驚いた。防諜など関係ないような勢いであった。

いよいよ実戦訓練 

 我々は1ヶ月ほどは基本訓練で、2ヶ月後くらいから演習場で実戦のときの銃の操作を習ったり、敵の陣地攻撃の訓練であった。あるときは戦車の絵を描いたベニヤ板を古参兵がぶら下げて歩き、我々が破甲爆雷のような物を持ってその前に飛び込むのであったが、気合が足りないと怒鳴られるのであった。戦車の来る前に蛸壺を掘って身体を隠さなくてはならないのと、戦車の前には匍匐(ほふく)で行くので動作が鈍いと怒鳴られるのであった。

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 8月9月は暑い盛りだから、毎日汗びっしょりになり、帰営するときには軍歌を歌うのであるが、声が小さいとやり直しを再々やらされた。営門を通る時には更に元気よく歩調をとり、兵舎に着くと整列して教官の講評が終り、「かしら中!」で解散初年兵は先を争って班内に入り、小銃、軽機関銃、摘弾筒などと編上靴の手入れをする。雨の日には時々靴底に泥がついていることがあって、古参兵に見つかって「靴底を舐めろ」と言われる。躊躇っていると靴底を舐めた他に靴を首からぶら下げて各班を回り、「何の誰べいはただいま靴を舐めました」と申告して歩くのである。
 また、消灯ラッパの頃、小銃の引き鉄が落ちていないのを古参兵に見つかると、銃の持ち主は部屋の隅にあるペーチカに向かい、1時間くらい捧げ筒をやらされるのである。理由は、陛下からお預かりした大切な武器なので、兵隊の休む前に休ませるのだという。私的制裁は禁じられていたが、古参兵は守らないのである。
 この頃から毎朝点呼が終ると銃剣術の間、稽古をやらされるのだ。体を鍛え、白兵戦に勝つためであるが、古参兵に小突き回されているばかりなのであった。

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 11月末の頃、羅南を出て汽車で国境に向かう我が中隊は、洪儀駅で下車し、4kmくらい歩いて甑山の兵舎に着いた。半地下の三角兵舎で、未だ出来ていなかった。ドアをつけたり、ペーチカの煙突をつけたりして、手伝ってようやく仕上げた。薪も明かりもなく、我々初年兵は古参兵に怒鳴られながら、ただウロウロするばかりであった。古参兵は暗い中を走り回って、乾いた薪、石炭、蝋燭などを見つけてきて、その晩は各班ごとに飯盒水餐をして無事に夕食を済ませた。
 外は霜柱が立ち、水を汲んでおくと氷が張ったので寒い所にきたものだと思った。心配したペーチカもどうやら燃え出したので、その晩は幾分か温かく眠れた。翌朝古参兵から、戦地では要領よく立ち回らないと、何も食わないうちに次の作戦に出なくてはならないので機敏に立ち回れ、と言われた。

終戦の後始末

 昭和20年8月17日(?)、私達は部隊の後衛尖兵の任務から本隊に戻った日であった。私が見た光景は、ソ連の空襲を避けて毎日夜行軍を続けて、戦争から解放された仲間の姿であった。今一番に思い出すのは、初めてのことなので誰にも今後どうなることやら見当もつかず、ただ呆然としていたのであった。しかし、阿部菊治軍曹だけは実戦の経験があるためか酒を飲んで上機嫌で、我々に携行した武器弾薬を出せというので出したところ、傍らの焚き火の中に放り込んだのである。小銃は銃身も弾も、金属以外は簡単にもえるものであった。なかでもダイナマイトは、ただ煙を少し出すだけで爆発もしないで燃えてしまったのには驚いた。本隊の連中は、昨日のうちにソ連に引き渡したとのことであったので、今更まだありましたとは言へないとのことであった。

 ここは満洲の三合村という学校の校庭であった。校舎の脇近くでは、大きな穴を掘って、その中で学校の重要書類のような物を片っ端しから焼いているのであった。軍旗(我が連隊には初めから軍旗はなかった)を焼く話は聴いたことがあるが、「書類なぞ焼くことは無いのに」と思いながら見ていた。近く東京へ帰るのだから、道中危険があっては困るからとの理由で、軍装検査で小刀、鏡、時計など光る物は全部没収されたが、燕口袋(えんこうぶくろ)だけはごまかして残しておいた。

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デマが飛びかう

 そんな事よりも、何日頃内地に帰れるかということが一番の気がかりであった。デマばかりで、正確な情報のない我々は、ただただ帰国の情報を待っていたのであった。デマの中でもウラジオ港に近い位置にいた我々が一番早く帰国できるような話を信じるようになったが、船があるのかないのかの心配までしていた毎日であった、何処から持ってくるのか関東軍の被服が山のように積み上げられてあって、それでも足りず後から続々と運んでくるのであった。我々は当然汚れた夏服なので、暑いのを我慢して、冬服と襦袢跨下毛糸で作った襦袢湖跨下など全部新品と取替へて着込んで、そのほか家に帰へってからの着替へと靴下なども「1ダース」も要るので荷物が多くなり、背負ってきた背嚢(はいのう)よりも背負い袋が良いと考へて、携帯天幕をバラしてリユクサックに作り替へたのである。

富寧への行軍

 「お天道様と米の飯はついて回る」といって、米は各人2升ずつ新しい靴下に入れて携帯して、東京ダモイ(注:ダモイは、ロシア語で「帰還」を意味する)に備えていた。突然、出発の号令が掛かり建制順に出発したが、それまでおとなしかったロスケが俄かに狼に変身。ダワイ、ダワイと怒鳴りながら、我々を追い立てるのであった。さながら羊を追う番犬のようである。落伍して遅れると実弾を打つので、危なくて歩かなくては命にかかわることなので歯をくいしばって歩いたが、背中の荷物が重く、やむなく重い物から順に道端に捨てて歩くのであった。

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 道の両側には朝鮮の人達が大勢待ち構えていたのであるが、ロスケは発砲するので少し離れていた。それでもロスケの目を掠めて近づくので、危なくて仕様がなかった。草臥れた我々の物を横取りするのだ。その時から富寧に至る間のことはめまぐるしく変化したのであるが、記憶にないただ夢のような気持ちであった。

 富寧ではカーバイト工場の社宅に入ったが、狭い所に大勢入ったので、鰯(いわし)を並べたように、皆死んだようになって眠った。朝になって腹も減ったので、皆が起きだし米は各人2合づつ出し合ったが、行軍中に余りに辛いので米を捨てた馬鹿者があって、その分も皆で出し合って飯だけを食った。何万人入ったのか知らないが、後からも続々と大勢入ってきたようだ。
 我々とは別に、関東軍の生き残りの人達が居たのだが、軍服は夏服で、ぼろぼろの乞食の様な仕度で、半病人のような集団である歩兵、砲兵、工兵、通信兵など、さまざまの人たちのようであった。お互いが知らない者同志なので、助け合うことがないようで、毎日死亡者が出るが、仲間同士で埋めに行く力もないらしく、常に我々の部隊が使役に出て埋めた。

死者の埋葬

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 私も4、5回ほど使役に出たが、枯れ木のように痩せた死体を砲車で運ぶのであるが、出発前にロスケの検査があるのだ。軍医ではなく一般兵だ。彼らは帯剣で死者の口をこじ開け、金歯があるかないかを確認し、金歯があれば抜き取って自分のポケットに入れて喜んでオーケーというのであった。その頃、金持ちの家では、悪くもないのに犬歯に金を被せて喜んでいた者がいた。私は何回も死んだ人を見たが、事故でない限り骨と皮ばかりに痩せて、枯れ木のようになった人ばかりであった。敗残兵になって病気で寝てばかりいると、誰も面倒を見てくれないのである。
 我々は、夏は少し穴を掘ったが、秋がきて土が凍結してからは死体をただ積み重ね、「カマス」を掛けていた。更に寒くなってからは、その「カマス」も、運んだ者が自分の布団のように掛けて寝ていたので、死者は裸で野晒しのままになっていた。その後その死体がどうなったかは分らない。
 私は一度、自分の郷里の隣村の人が死ぬらしいので行ってみろと言う者がいたので、どこの人だろうと不審に思って見に行った。痩せて見覚えのない人であった。それよりも驚いたのは、親戚だとか戦友だとかいう人達が5人ほど集まり、互いに「形見を届ける責任がある」と言って、未だ死んでいないのに、着ている軍服、シャツ、ズボン下、靴下などを剥ぎ取って持っていくので呆れた。後には、死ぬ直前の人と逃げ遅れた虱(しらみ)が残ったが、近くに寝ている者も、誰も止めようとはしなかった。元気がなく、明日は自分がそのようになるので、制止は出来ないようであった。まるで地獄の一歩手前の有様だった。

幽霊見たさ

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 幽霊を見たさに、夜仲間と連れ立って死体置き場に行ったことがあった。不思議なことに、誰も幽霊や火の玉に出合ったものはいなかった。私は子供の頃から臆病で、幽霊や火の玉は1人の死体ごとに確実に出るものと思っていたが、誰もそのようなものを見た者はいなかった。

持ち物検査

 我々は昭和21年5月まで富寧にいたが、ロスケに毎日装具検査だとて外に並ばせられ、持ち物を検査して目ぼしい物を取り上げられるのであった。彼らの目的は、日本兵の持っている時計が欲しいのだ。彼らはいつも「東京ダモイ」といって外に並ばせるので、誰もロスケの言うダモイは信じないが、それでも常に希望は持っていた。夜になると、ロスケのダバイという泥棒は来ないので、空腹を紛らすために民謡や歌謡曲などを歌っていた。

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紙芝居男とワイ談男のこと

 柴秀彦という同年兵がいた。彼は徒歩行進をする時、右手と右足を同時に上げる癖があって、なかなか直らず、水谷さんに特別教育をして貰っていた。彼は紙芝居が得意で、毎晩我が分隊で語ってくれた。彼は他の分隊にも頼まれて行くようになった。「報酬」は夕食を一食ご馳走になるだけとのことだったが、あとに残った我々はそれが羨ましくて仕方がなかったのである。その内に毎日の装具検査で、種本を没収されてからは、話の種がなくなったので「ただの人」になったが、いつの間にか居なくなった。ほかの隊にでも行ったのかもしれない。
 S君という同年兵が居たが、ワイ談が得意で、初年兵の時には古参兵に可愛がられた。彼は料理が得意なので、炊事当番につくと色々と珍しい料理の作り方を教えてくれた。終戦の頃は、聯隊本部の将校当番に勤務中、悪いところに遊びに行ったらしく、淋病を患った。手術をしたが未だ治らないうちに戦争になったので、富寧にいたら何処からか我が中隊に転属してきた。彼は未だ熱があるので、毎日川の水で残った睾丸を冷やすのであったが、誰も嫌がるので私の隣りに寝かせ

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て、私が冷やしてやった。1日5回ほど飯盒で冷やすのであったが、3か月ほどした或る日、病人は先に帰すとのことで、どこかへ連れて行かれた。昭和23年10月3日、私が帰ったときには未だ帰らず、2か月位遅くなったようだ。
 その彼も、帰還後、病院の調理師になり、未亡人には特に親切にしたので、よからぬ方面でも大いに活躍をしたようだ。また新興宗教に入っても活躍したようだ。私も入信を進められたが、私はそれだけは断った。

藤田君と宮下君のこと

 藤田君という名の、入隊が2年遅い兵隊がいた。直江津の鉄道機関庫に勤務とのことで、道具作りは上手かった。夜になると民謡を歌うので、我々も真似をして歌ったものだ。肝心の所は腹に力を入れる必要があるのだが、誰も腹が減っているので力が入らないものだから、度々藤田に怒られるのであった。その後は何時の間にやら藤田もいなくなった。
 宮下七郎さんは、今も元気で活躍しているとのことであるが、彼は元来、器用な生まれらしく、伐採の時には鋸の目立て、タポールの研磨、土工に使う鶴嘴(つるはし)のさきがけを遣ってくれた。鞴(フイゴ)から造るので、大変な技術の持ち主であった。古い空き缶を見つけて、作業の余暇に小隊全員分の食器を揃えてくれた。朝夕の食事の分配には能率が上り、公平に分配されておおいに助かったのであった。

通訳、水谷泰二さんのこと

 今ウクライナで大騒ぎをしています。私がシべリヤで俘虜だったとき、ウクライナ出身の歩哨に監視されながら仕事をしていたことがありました。その時、あまりにも意地の悪い歩哨が居たので、水谷通訳に「彼を説得して、ノルマを減らすように交渉してくれ」と頼んだことがありました。水谷通訳が言うには、彼は何処に行っても嫌われるので、調べた所、彼はドイツに近いウクライナの出身で、独ソ戦のときドイツの兵隊に水をやったのが見つかり、戦犯として此処に連れてこられた。それで誰にでも当たり散らすので、何処でも嫌われているのだという。
 日本には大陸のような国境は無いが、ヨーロッパのような国境の近くにいる人達は、常に国境が変動するので、どの国になったのも分からないまま暮らしている人が多いというのだ。同時に、民族が違うので、お互いに縄張りを争って喧嘩も多く、ひねくれ者も多いとのことであった。今の韓国と同じようだ。
 水谷さんも、60年先のことまでは分からなかったと思うが、主権者が時々変わる国は、国内が乱れているから国民の心も乱れるというのだ。彼は、私と同じ昭和16年7月の召集で、羅南歩兵第76聯隊第2中隊所属であった。班は1班で、小銃班と榔弾筒班と同室であった。

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 廊下を隔てて軽機関銃班がいた。軽機関銃班は、「歩兵の花形」といわれ、気合の入っているのには驚いた。入隊したとき、師団長命令で、私的制裁は絶対に禁止といわれたのに、各班には師団長よりも偉い人が多くいて、初年兵にビンタをくれるのであった。主に万年二等兵というような者がひねくれ者で、ヤクザに近いようであった。
 将校や班長も、彼らに何も注意しないで遊ばせておくようであった。水谷通訳は頭がよく、背も高く学歴も高い。古参兵が意地悪い質問をしても、考へることなくてきぱきと答えるので、意地悪古参兵は発言に困ってビンタをするのであった。その為、かけていたメガネが常に壊れ、昔の老人がしていたようにいつも紐で釣っていた。
 私は彼に、幹部候補生に志願した方がよいのではないか、と話したことがある。彼は母と2人だけの世帯で、母が大学まで出してくれ、女学校の先生にまでしてくれたのに、今回の召集になったというのだ。召集兵でいる限り、学校の給料は母に届けられるが、職業軍人になるとその給料が打ち切られてしまうと言うのだ。私は初めて聞いたことなので、ただただ驚愕したのであった。

お経をあげてくれない佛教大学生

 戦争中、国元彦衛さんが亡くなったとき、軍隊だから同じく屍衛兵を立てて懇ろに弔ったことがある。我が隊には、彿教大学を出た者が5名ほどいた。3名が固まって雑談していたので、屍の所に行ってお経を上げてくれないかと頼んだ。そしたら「お前は何を考へているのか知らないが、死んだ者にお経を上げたとて本人は生き帰るわけではない」と言うのだ。「我々が学校で勉強したのは、死んだ者を生き帰えらせることではなく、俺達が元気な身体で帰って先祖の供養をしてくれと頼まれてきた]、と言うのだ。大勢の檀家が金を出し合って卒業したのだから、どんなことがあっても生きて帰らなくてはならない、とは言うのだが、国のためとは一言も言わなかった。

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 普通、現役兵は毎年1月入隊なのに、我々は夏に入隊したので、「なつこ」(夏子?)と呼ばれていた。1月に入る現役兵よりランクの劣る2級品として我々を見ているようであった。1月に入った現役兵は、毎日猛訓練を受けていた。この現役兵達は我々と兵舎は同じで、2階に1個中隊がいた。つまり、1個聯隊の兵舎に2個聯隊が入っていたのだ。朝の点呼が終ると、班内の掃除やら営庭の掃除などに分かれてやるので、営庭は一杯になって働くのだ。
 我々としては、働いている者が全部上級兵だから、敬礼ばかり忙しくて、油断が出来なのであった。殊に、食事当番の時、汁缶は2人で担ぐのであるが、引率の一等兵が「歩調を取れ」と号令をかける。真面目に歩調を合わせると、どうしても汁がこぼれてしまう。そのため、班内に到着すると古参兵に怒られるのであった。
 便所は2階に造ることが出来ないので、2個中隊の者全員が同時に使うのでベニヤ板で作った簡単な便所を建て増しして作ったが、それでも足りず、朝などは大混雑する。要領よく済ませておかないと、教練の時に出たくなり、こっぴどく怒られるのであった。
 1月に入隊して猛訓練していた連中は、10月に入ると突然何処かに出かけていなくなった。何やら分からないままにいたが、後で分かったのは、南方派遣軍として台湾に集結し、各連隊から1個大隊を集め、1個師団を編成して比島のリンガェンに奇襲上陸し、マッカーサーの米軍を追い払ったのだそうだ。

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 我々夏子は、留守部隊となって訓練に励むのであった。我々が入隊して3か月もたったある日、突然武装して汽車に乗り込めという命令が下った。行く先は知らされない。日、満、ソ、3国の国境が揃う朝鮮の最北の「洪儀」という寂しい駅で下車した。その時は、すでに暗くなっていた。真っ暗な夜道を、前の者を頼りに、後ろについて2里ほどで新しい兵舎についた。できたばかりの半地下の建物だった。出入口の扉は、未だ蝶つがいもなく、立てかけてあるだけだ。猛烈に寒いのに、ぺーチカは作っただけで煙突もない。ゴミを集めて燃やしたら、煙ばかりで、部屋の中には居られなくなり、外に出て深呼吸をしたのであった。
 この頃には、既に偉いやくざまがいの古参兵はおらず、建設的な古参兵であった。我々は、ゴミや枯れ木を集めて飯盒で御飯を炊くのが精一杯なのに、古参兵はぺーチカに焚く石炭をどこからか見つけてきて、一晩中燃やしていた。どうやらぺ-チカの近くだけは暖かいようだった。しかし、我々初年兵は入り口だから、寒いこと甚だしい。朝のラッパはなく、起床、点呼の号令で外に出ると、バケツの水に氷が張っていた。
 後で分かったのだが、甑山という朝鮮部落があり、その近くの草原に兵舎を建てたばかりの建物に我々が入ったのだ。この建物は、三角兵舎といって、柱のない3cmほどの厚板の合掌造りで、30cm間隔に立て、厚さ1cmほどの板を屋根の代わりに釘でうちつけ、ルーフェングを張って、土を20cmの厚みに乗せたものであった。夏が来て、雨が降っても寒さが来ても、雨漏りだけはしなかった。
 風も入らず温かかった出入り口は切り妻になった方で、6cmくらいの柱があり、出入り口の扉を取り付けてあるのだ。3度の食事は、別棟で作ったものを食缶で運んだ。中央に簡単な板のもので作り付けにした机があった。この机で銃の手入れや食事、勉強もするのだ。明かりは天窓が2箇所ずつあり、昼間はどうやらそれで過ごせたが、夜は薄暗い石油ランプだけで、手紙もかけないのであった。日曜は勤務がないと被服の手入れなどで、遊ぶ暇は全くなかった。

豆満江での斥候

 ここの陣地の任務は、敵情監視であった。毎日暗くなると、1組6名の斥候が3箇所ほど豆満江の右岸を巡察するのであるが、冬になると川は厚さ1mに凍るので、スパイは自由に対岸と往来ができるのであった。我々は、実弾を込めた銃を持ち、音がしないように地下足袋という軽装備で行くのだ。更に寒くなり、12時を過ぎた夜中に、天地を揺るがすような大砲を撃つような音がする事がある。初めての我々は、腰が抜けるほど驚いた。それは豆満江の氷が割れる音だったのだ。大地も川も全部凍るので、お互いが引き合って割れるのだそうだ。つまり日本側とソ連側が、川を挟んで引き合うのだ。氷も寒くなると、体積が減るのだそうだ。

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 我々の苦心しての巡察に関わらず、1件もスパイは掴まらなかった。毎晩、豆満江の両岸では、スパイが連絡のためか青、赤,黄、紫の信号弾が10発以上打ち上げられていた。我々の中隊本部から8kmはなれたところに、豆里峯という山があった。30名が1個小隊で、敵情監視と敵襲には死守を命ぜられた山があり、頂上には展望哨があり、3名勤務で1時間交替。昼間は24倍の双眼鏡でソ連の陸上と海上と空中を監視する。異常があるときは直ちに連隊本部に電話で報告することになっていたのだが、実際は殆ど変化はなかった。
 ここには小隊長1名、下士官1名、兵28名の中から展望哨、炊事、衛兵、連絡、雑役など、殆ど仕事があって忙しいのだ。暇なのは小隊長で、毎日雉(キジ)撃ちが仕事であった。国境では実弾の発射は固く禁じられていたので、狭裂実弾である。炊事班から残飯を貰って雑草の少ない空き地にまき、雉の来るのを毎日待っているのだ。雨の降らない日は毎日で、護衛係の私は虻を追い払う事もできないのだ。小隊長はもっと真剣で、虻が来ても蚊が来ても身動きしないのには、只感心して見ていた。この夏、2羽は採ったようだった。夏の雉は、餌がないので不味いのだそうだ。ここの小隊長は、何のために軍隊にいるのかわからないのだった。

北朝鮮羅南へ

 私は家を出るとき、母に「酒を飲むな」と言はれたのを90歳を過ぎた今でも守っている。その頃は、病気で早すぎる除隊をした者がいたので外聞が悪いのであった。

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 高田には6日位いた。その間に軍服に着替え、新しい38式小銃を渡され、「包帯を巻いて大切にしろ」といわれた。家族のいる人には面会があって、お互いに別れを惜しんでいたようであった。元気のよかったのはここまでで、まるで屠殺場に行く牛のようにしょんぼりとなったのには驚いた。軍隊経験のない我々はこれからのことは分からないのであるが、襟章に星2つをつけた者や3ヶ月教育だけで除隊した者たちは、ピンタを思い出してかサッパリ元気がない者ばかりであった。
 夕方、銃をもって営庭に整列。直ちに駅に向かって行進し、停車中の客車に乗り、何処に行くのやら分からないうちに、突然、鎧戸を下ろした夜行列車で大阪まで行った。直ちに貨物船に乗り込み、明け方までに門司に向かい、そのまま朝鮮に向かった。移動中は灯火管制で何も見えず、夜のことで外のことは何も分からない。
 玄界灘では噂のとおりの大揺れで、食事も喉に通らない者が多かったが、無事に釜山に上陸して民家に2泊。翌朝、汽車で北に向かった。同時に招集された古参兵も行く先がわからないので、不安のようであった。暗くなってから北朝鮮の羅南に着いて、直ちに歩兵76聯隊の2中隊に入った。一緒にいた古参兵は何処に行ったのやらその後会うことはなかった。
 一夜が明けて、朝飯は赤飯であった。食事が終ると古参兵の戦友の下に、高田から着てきた軍服は儀式用だとて脱がされ、継ぎはぎの多い軍服に着替えさせられ、潰れた軍帽をかぶり、足に合わない靴を履いて兵舎の前に名簿の順に整列した。いよいよ初年兵教育が始まった。私達は補充兵であるが、同じ兵舎にいた同年代の現役兵は毎日猛烈な訓練で、くたくたになるほど絞られているのだそうだ。やがて彼らは南方へ出動したようだ。

国境守備隊の仕事 

 我々国境守備隊という任務は、銃を持って敵の方向を監視し、敵が攻めて来たときにはわが身を犠牲にして陣地を守るのが任務だと思っていたのに、毎日塹壕堀りの土方仕事ばかりとは思っても見なかった。特に戦車壕は深いので、モッコで土を担ぎ上げる毎日で、地方の土方とかわりがないのであった。軍帽をかぶっているので軍隊と分かるだけである。

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 毎日暗くなってから巡察という任務があって、古参兵2名、初年兵2名、合計4名が1組になって出発する。装備は地下足袋、着剣した銃、実弾5発を装填して出かける。現地では古参兵1人、初年兵1人が1組となり巡察に出る。1組は待機、巡察は豆満江右岸を約2時間ほどかけて巡察する。スパイを見つけるためである。毎夜、豆満江の両岸で10発前後の赤、白、青の信号弾が上るので気味が悪いのである。道のない草藪を音を立てないで5kmほど探すのだが、一度も見つからなかった。2時間ずつで交替して休憩する。夜が明ける頃、兵舎に帰って朝飯。あとは午前中休みで午後は営内作業となる。

 甑山の中隊から約8kmはなれたところに「豆里峰」という山があった。小隊長以下30名が派遣され、守っている陣地であった。頂上に展望哨があって、3名が1週間勤務して敵情を監視するのだ。24倍の望遠鏡で、朝早くから暗くなるまで監視をするのだ。土の中なので、冬は炬燵(こたつ)だけでも暖かいが、夏は湿気があって蒸し暑いので苦しいのだ。それに空気が湿っているので夏は蚤(のみ)が多くて悩まされた。毎日敵の動きを記録し、日報として翌朝連隊本部に送るので細かく書くのである。急ぎの時は電話で報告する。四季ごとに景色が変わるので偽装にも注意した。
 

対岸の野火焼き

 対岸のソ連では、川から3kmくらいは平地で、馬の飼料のための草刈場になっていた。毎年春に枯れ草を焼くのだが、その時、風があると燃えなくともよいところまでも燃え広がるのだ。あるとき風の勢いで敵陣地の偽装を焼いたことがあり、我々は対岸の火災というとおり、24倍の対空眼鏡で喜んでみていた。夜は敵が見えないので、我が軍の歩哨が山の警戒に上ってきて、朝まで警備をするのである。

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 昭和20年4月頃、豆里峰の頂上で敵から見えないところで山砂利の採掘が始まった。近くの部落から毎日若い娘たちが8人前後来て、採・砕石をして夕方は帰るのであった。その娘たちはお昼を現場で食べるのだが、春は馬鈴薯で夏は玉蜀黍で秋は稗(ヒエ)、きびなどで、オカズは塩が殆どであった。土地の老人に聞いたことがあるが、日本と併合したので米の配給があり、食べられるようになったと喜んでいた。我々のいた北朝鮮では、寒くて6年に1度しか稲が実らないとのことであったので仕方がないのだ。その代わり、毎年豆満江が氾濫し、無肥料でも米以外は豊作であった。

 ある日、豆里峰の麓に砂とセメントが運ばれ、我々に山の上まで運べという。私は軍隊に入る前にも背負ったことは度々あったが、長くても20m程の距離であった。200mもの距離を山の上まで背負い上げる事などなかったが、この度は仕方がない。兵隊は手分けをして砂は30kgていどに分け、「かます」にいれて運んだ。セメントは50kgなので、袋を破る事も出来ず、そのまま背負って頂上まで運んだが、背中と腰が痛くて泣きたいようであった。ここは古兵のつらいところだ。ここで泣いては初年兵に示しがつかないので我慢をした。間島という初年兵が1袋運んだが、その後は「もっこ」を作って運んだ。

突然、弾薬庫作り

 その後工兵隊が来て型枠を組みだしたので、歩哨の雨宿りのために建てるものだと思っていたところ、或る日突然、「今日は弾薬庫のコンリート工事をやるから準備しろ」という。事前に何の用意もなく、ただ命令だからとて工事をやれというので、私はコンクリート工事をやるには砂が少なく、とても今日は無理だと言うと、命令だからやれというのだ。
 私は分家の政太郎爺さんに、土方工事に連れて行ってもらったことがあるので、コンクリートの配合や型枠の組み方などは一通りのことはできるつもりでいた。材料の足りないコンクリートは出来ないので、小隊長に率直に申し上げたが、ただ彼の機嫌を損なっただけであった。兵隊は命令に従うほかない。仕方がないので石油箱、当時は電気がなく専ら石油ランプの時代であったので、石油1斗缶が2個分入る木箱があったので、その箱に砂利2杯を1回分として、砂はその半分、セメントはその半分として板を見つけてセメント枡を作った。工作物は当時1対2対4が配合の目安だった。コンクリートの配合比率は誰でも知っているものと思っていたが、我々歩兵隊では誰も分からないようであった。仕方なく全員に配合の仕方や練り方を教え、取り掛かり、どうやら夕方までには終ったが、砂がなくなったので仕方なく終ったというのが真実だ。終ってはみたものの、砂が足りないのでアバタだらけであったが、型枠の外からは見えなかった。
 小隊長は10日も経つと出来上がりを見たいというのだが、工作物は4週間以上の養生期間を絶対に守らなくてはなりませんと言うと、我慢していたのだが、期間がきて工兵隊が型枠をはずしたところ、アバタの多いのには呆れたようであった。我々工事をやった者はもっと呆れた。天皇の命令とはこういうものだった。セメントや砂や砂利には、天皇の命令も届かないようであった。命令というものは、「材料を無駄に使う」ことと同じということが多いようであった。

勝ち戦の報道ばかり

 我々兵隊も時々新聞を見ることがあり、ガダルカナルで我が軍が犠牲少なく「転進」したとの記事があった。転進というのは、初めて聞いた言葉で理解が出来なかった。いつも犠牲が少なく、勝ち戦ばかりのわけだったのである。ミッドゥヱイの時も、最少の兵力で最大の戦果を上げた、となっていた。

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 私達は戦争が終らないうちに一度戦場に出てみたいと話し合ったこともあった。それには一度除隊して再度招集されれば、あるいは行けるかもしれないと思っていたのであった。
 5月、我々は中隊から3名、特殊訓練のため、懐かしい羅南に行った。各部隊から同じ目的で集められた者が総員100名であったが、毎日匍匐前進と駈け足が多い訓練であった。勿論勉強はあるが、新兵器に対しての新しいことなどは何もない。初年兵のときと同じ中身であった。我々は、南方の戦場で行われている新兵器の使用訓練があるものと期待したのだが、そのようなことは何もなかったのでがっかりした。訓練で清津から羅南の兵舎まで、約2里の道路を完全軍装で駆け足をしたことがあった。
 その時100名中、上村さんが2番目、私は7番目だと記憶している。その時、現役兵が1名入っていたが、余りのきつい訓練のためか駈け足が終ったと同時に死んだのだ。心臓麻痺とのことだった。その所為か、その後は教官も無理な駈け足はさせなかった。1週間に一度、片桐さんが伝書使として羅南の連隊に来るので、私達は地下足袋などを持たせてやった。国境では毎日土方作業が多いので、履物が特に破れるのだ。私達は他の中隊の留守を狙って、かっぱらって来るのだ。古兵になって、泥棒が出来ないようでは初年兵に示しがつかないのだ。

年3回の外出許可

 我々はこの教育のため3ヶ月いたが、その間に3回個人外出が許された。入隊以来初めてであった。その頃は、何処でも品物がなかったが、市場に行ったら鯖があったので、3人で1匹ずつぶら下げて何処か煮てくれそうな家を探していたら、偶然穏やかそうな人に出会ったので、その家に頼んで鯖を料理して貰った。3人で1匹半ほどしか食べられないので、残りはその家の人に食べてもらった。
 その他、配給の煙草が80本ほどあったので、お世話になったお礼にとその家の主に差し出したら大変喜ばれた。その頃は、タバコの配給は殆ど民間にはなかったようだ。我々は3回ほど外出したが、行く当てもないのでいつもその家に行った。我々にとても親切にしてくれたのを、今でも忘れることはできない。

憲兵試験を受け見事不合格

 入隊して2年も経つと、ボツボツ除隊後のことも考えるようになる。未だ戦争に負けることなぞ思いもつかない時だけに、私も家に帰っても三男なぞ用の無い人間だから、除隊後何になったら良いだろうかと考えていた。そのときに、憲兵になれば除隊になっても仕事はあるだろうと考えた。それで急遽、憲兵隊を志願した。

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 昭和18年ごろ、憲兵募集の知らせがあったので、私と隣り中隊の者と2人で、2里位離れた憲兵分遣所に行って面接試験を受けた。面接官は大尉で、今日は一次試験で二次試験は後日通知する、ということであった。その日渡され間題は、学歴、資格、特技などの欄があり、学歴は何処の大学で、卒業か、中退か、資格は何があるか。特技では自動車の免許はあるか、旋盤工、鍛冶、溶接工、電気通信技術、無線通信技術など。外国語は英、仏、露、支那、朝鮮、等々多技に亘る調査であった。
 私は上記の事には何一つ当て嵌まるものはなく、無試験で兵隊になったのに、同じ兵隊なのに何と難しいことばかり要求するのかと呆れたが、どれにも当てはまるものは無い。当然のように、2次試験の通知はなかった。

やむなく炊事当番を拝命

 ほどなく我が国境守備隊も、秋季合同演習が始まることになった。凡そ一週間もかかるので、その間留守を守る者を誰にするか、ということで幹部は頭を悩ますのであった。誰もが演習に参加するのは進級に繋がるので行きたい者ばかりだから、残留者を決めるため、弱い者を選出すのに幹部は苦労しているようであった。偶々、その時私が魚の目が踵にできていたので班長に話したところ、班長は喜んで「弱い兵隊は初年兵にはいくらも居るが、古参兵には居ないので困まっていたところだ。丁度良かった。」と、喜んで中隊長に報告して残留組にされたので大変残念であった。

 部隊が演習に出発して2,3日した頃、憲兵隊から至急手伝いに頼みたいとの電話があった。明日憲兵隊でも秋の演習があり、炊事担当の兵隊も全部参加する。古参兵で炊事のできる者を1名、できなくともよい者を1名、是非出して手伝ってくれ、との依頼だった。私の隊では演習に出て誰も居ないので、私が行くことになった。1名足りない分は隣の山砲隊から出してもらった。当日、2人で憲兵隊の事務所に行ったところ、羅津要塞司令部から3名来ていた。私より歳上で、1名は40歳、あとの2人は30歳を過ぎたばかりの人であった。
 階級は星1つで、未だ入隊して3月ほどとのことであった。本人たちの言うには、大学の先生とのことであった。私は大学には馴染みがないので、それ以上の事は一切聞かなかった。

牡蠣を臓物と勘違い

 そのうちに憲兵軍曹が出てきたので、夫々が申告をしたら軍曹が今日は憲兵隊の1年で一番大事な演習なので、昼と夜の飯を作ってもらう。米は此処に、麦は此処に、味噌・しょう油は此処にと指示をした。ほかに一斗缶が2個あり、口をきってあるのを見たら何かの臓物のような汚いものを指さして、「これをフライにしてくれ」というのだ。私は見たこともない物なので返事も出来ないでいたら、40歳を過ぎた大学の先生が、「大丈夫だから任してください」というので、軍曹も安心して演習に行ってしまった。

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 その後は先生の指図で、米を洗い、家庭用のお釜4個くらいに別けて飯を炊いた。汁には、馬齢薯と菜っ葉を入れていた。私などは何も出来ないので火焚き専門だった。やがてフライになったので、先生の指示の通りに汚い物に粉をまぶして油で揚げるのだ。先生は私に、初めに揚がったものの味を見てくださいというのだ。私は生まれて初めて食べるので、こんな物を食って死んでもつまらないので、端のあたりを少し摘んで食べたが、初めてのことでサッパリ分らないのだ。それでも「4個くらい食わせて見ろ」、と大見得をきって食ったところ、生まれて初めてのことなのに、そのうまい事は天下一品であった。私が2つ目を食べ終わらないうちに、あとの4名がいっせいに手を出して、揚がる後からフウフウと吹きながら食べるのであった。内地と違い、大陸では水が悪いので、炊事では常に湯冷ましを用意しておかねばならず、火を焚く私も忙しいのだ。

憲兵も牡蠣フライに夢中

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 憲兵は短剣で格闘競技をするので喉が乾くとみえて、湯冷ましを飲みに度々炊事場に来るのだ。その帰りにフライを口に1個入れてゆくので、なかなか貯まらないのだ。私が憲兵を怒鳴りつけて追い返すのだが、相手は伍長以上だから効き目がないが、私は炊事当番の親分だから止むを得なかった。それでもお昼には頭数だけの飯、汁ができ、おかずは牡蛎フライを3個ずつつけることができた。
我々は牡蠣を盗み食いしていたので、腹が一杯で、飯など食うことが出来ない。それで小さなおにぎりを作って、海苔巻きにして並べてやったので大変喜ばれた。軍曹も指示した通りのことをやって、無駄に余して捨てた物もなかったので、我々が牡蠣を腹一杯食ったことはお咎めなしであった。年配の大学の先生は、食堂の経営者のように料理の手配と作り方は上手であった。夕食も昼と同じく飯、汁、おかずにはフライは一個しか渡らないので、あとは沢庵でごまかした。
 私は、先日の憲兵試験に不合格になった腹いせもあって、美味い牡蠣フライを腹一杯食ったのと仲間の4名にも腹一杯食わせ、水のみに来る軍曹、伍長を散々怒鳴りつけたので気分の良い1日であった。後日、わが部隊の演習が終ってから憲兵隊から苦情が来るかもしれないと覚悟をしていたら、丁寧な感謝のお礼があったそうだ。軍隊とは変わったところだ。

原隊復帰とソ連の参戦

 8月8日、私達は特殊訓練が終って甑山の中隊にいた。3ヶ月の特殊訓練で羅南に出張していたのであったが、訓練が終わり原隊に復帰して10日くらいの時にソ連の参戦となったのであった。
 ソ連の参戦は、我々の頭の上を飛行機が絶え間なく羅津要塞を爆撃に行くので、いよいよ始まったと思った。要塞では何発かに一発は曵光弾を打ち上げるのだが、飛行機には届かないのであった。
 朝になったら洪儀のとなりの四会の駅が、午前中砲撃された。しかし、砲弾は駅舎にも線路にも当たらないようであった。砲弾の目標はポシエット湾岸にある要塞砲のようであったが、我が軍の反撃はないようだ。
 8月10日、私は潜伏斥候として甑山前面に進出し、予め作ってあった蛸壺に身を潜め、スパイが来たら捕り押さえるべく静かに潜伏して居るのだ。部落から豆満江に通じる大きな道の脇で、墓場の隣りである。朝鮮の墓地は何処でも見晴らしの良い所につくるのが多いのであった。

朝鮮の葬式

 朝鮮では死者が出ると自宅でお経を上げた後、墓地に行くのだが行列が賑やかだ。頼まれた泣き女が3名ほどで声を限りにアイゴー、アイゴーと叫ぶので、賑やかである。墓地に着くと、大きな洗面器からご馳走を出して、泣き女と共にお祭りのように騒ぐので、見晴らしのいい所が良いようだ。掃除もよくやっているようであった。

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 我々斥候7名は、そこで朝まで監視をするのである。私は「明日は必ず大きな命令が出るから、今夜はそのつもりで蛸壺に入ったまま眠れ」と言い、私が2時間だけ眠らないでいるからと次の順番を指名して静かにしていたら、突然、大きな鼾が聞こえる。誰だと言うと軍犬だというので驚いた。軍用犬というものは警戒心等ないようであった。
 夜中0時頃、遠くで誰かを呼ぶ声が聞こえるので耳を澄ますと、声が次第に大きくなり、私の名前を呼ぶので返事をしたら水谷軍曹であった。彼は「直ちに引き上げて中隊に戻れ。今夜のうちに何処かの陣地に行くらしい」とのことで、我々も遅れては困るので大至急で本部にかけつけた。
 本部では戦争に行く支度で、軍服下着など新しい物に着替え、米、缶詰などのほか、弾薬は弾薬盒に詰めたほか、背嚢にも詰められるだけ詰め、更にダイナマイトを3本とそのほか余った弾薬を持たされたのには驚いた。入隊以来、初めてである斥候に出た者全員が同じように持たされたのには、ただただ驚くばかりであった。そのほか小銃、軽機関銃も持てと言われたが、とても重くて持てないので断った。
 我々7名は一番遅れてきたので、支度も未だ出来ないうちに出発の号令だ。私は分隊長として部下を見回したところ、普段弱い者2名も同じくらいの弾薬を持たされていたのには驚いた。歩兵は歩くのが仕事なのに、普段は歩く訓練をしていないので、1時間もしないのに隊列から遅れる者が出始めた。励ましながらの行軍である。励ます者も落伍したいほど草臥れているのだ。
 
 甑山にいた山砲隊は、砲車に荷物を積んで身軽になって歩いているので、山砲はどうしたのだと聞いたら、肝心の部品は取り外して大砲は全部玄譚湖へ沈めたと言うのだ。我々歩兵は持ちきれないほどの荷物と弾薬を持たされ、やっとこ歩いているのに砲兵は身軽に歩くのを見ると、不公平だと文句の一つも言うことが出来ないもどかしさがあった。

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兵隊さん助けて下さい

 かくして我々は朝方まで歩き、夜が明けたら敵の飛行機の襲撃であった。何回も機銃で撃たれたが、だれにも当たらなかった。歩兵が飛行機に勝てるはずもなく、算を乱して木の下に逃げ込むのであった。途中何回も飛行機に追われたが、その度にただただ逃げるだけであったが、身体を休めることができるのは有り難かった。
 行軍の途中、避難民と一緒になったことがあった。老婆が孫の手を引き、孫は足から血を流して歩いていた。ここまで来るのに履物は擦り切れてしまったようだ。若い母親は子供を背負い、手鍋を提げて歩いていた。食べる物はなく、近くの畑から無断で獲ってくるのであった。子供たちは、ジャガイモばかりでは嫌だと駄々をこねているのであった。このような人達は、私達を見ると「兵隊さん助けてください」と口々に叫ぶのだが、我々も何処に行くのかも分からないので相談には乗れず、ただ黙々と歩くのであった。
 時計屋だという奥さんは、時計に使う宝石を油紙にくるんで「かます」に入れ、泥棒に見つからないようにしてきたので「早く帰りたい」と言っていた。

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戦争花嫁

 このような姿の人びとが道の両側に延々と続いていたが、その中に若い娘さんが居たので聞いたところ、花嫁になるために来たので、内地から昨日着いたばかりですとのことであった。我々の部隊はそこから別の道を通って目的地へ急いだが、またもや飛行機に追いかけられるので昼間の行軍は諦め夜の行軍になった。段々草臥れて落伍する者が出るので、上村分隊長と打ち合わせて小銃を取り上げ、私達は小銃を2丁担いだのだ。歩兵はいかなる時でも小銃と帯剣は手放せないのだが、仕方がないのだ。弱い兵隊たちも、家族は只々彼らの帰りを待っているに違いないと思うと、見殺しにすることは出来なかった。

後詰めの後衛尖兵

  ある日行軍中、突然、後衛尖兵としてここに残れということになり、我が第3小隊の中から決死隊を募り、上村分隊から8名、私の分隊から8名程名乗り出たと思う。16名の中から更に、上村分隊長以下5名程が橋の爆破に出かけたのであったが、予定の敵の戦車は見えず、避難民が続いてくるので爆破は出来ないとのことであった。私達は小林洞?という小さな部落に5日ほどいて、敵が来たときにはその進軍を食い止めなければならないので、初めから決死隊なのである。
 後衛尖兵という任務は部隊が進軍するとき本隊の後ろを守り、自分の身を犠牲にして本隊の安全を守る役目なのである。その時の状況は、敵の戦車が直ぐ後ろに迫っているというのであった。

軍用犬

 私は子どもの頃から、新聞や雑誌に軍用犬がとても軍隊の為に役立つのだとのことが書いてあるので頼もしい存在だと思っていたが、我が小隊にいた軍犬は、警備に出れば鼾をかいて寝ているし、行軍になると2日目までは歩くが、3日目には落伍して歩けないので、犬兵は綱を担いで引っ張って歩かなくてはならないので、やむなく綱をはずして追放した。
 軍犬係の話では、毎日2時間以上の運動が必要なのだそうだ。上官にはそのようなことは分からないらしく、一般の兵隊と同じく塹壕堀りや歩哨勤務につけていたので、運動など1日もしたことがなかった。軍犬は飼い主以外にはなつかないように訓練していたので、味方の兵隊も時々噛みつかれるので、危なくて側に寄れないのであった。いつも思うのは、訓練をおろそかにしながら、いざという時に役立てようというのは虫が良すぎるというものだ。

糧秣として牛1頭

 我が中隊に、糧秣として牛が1頭配属されていたことがあった。兵隊に肉として食わせるよりも、生きた牛を配給した方が安いらしいとの話であった。中隊でも生きた牛を殺す勇気のある者は少ない。牛は荷物の運搬には便利なので、荷車を引かせて毎日使っていた。戦争になったので荷車に弾薬と被服などを積んで出発したが、足が遅くて軍隊の行軍にはついて行けない。やむなく大休止のときに半島出身者にと殺して貰い、各分隊に肉を分配したが、煮始まったと思ったら出発の号令で直ちに出発だ。働いていた牛の肉は硬くて、地下足袋の底を齧(かじ)っているようで、全然旨くなかった。牛は戦争とは関係なく、1日に2回以上、反芻(注:胃から口に戻し噛み返すこと)の為に休ませなくてはならない動物なのだそうだ。

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伝書鳩

 豆里峰陣地に伝書鳩がいた。といっても、餌をやるだけであったが、毎日連隊本部から午前と午後10羽ほどの鳩が飛んできた。1時間ぐらい駕籠の中で餌を食べ、鷹や隼などの猛禽類が居ないことを確認してから放すと、上空で3回ぐらい旋回して本部目指して帰るのであった。それでも1、2羽くらいは帰らないのが時々いる事があるのだそうだ。落伍したか、猛禽類に襲われたか分からないそうだ。戦争が始まってからはどうなったかは分からない。
 餌を食べさせる小屋までは運搬できないと思うので、そのまま放したのであろう。鳩は忠義の気持ちがあるのではなく、餌を食べたいので毎日本部から飛んでくるのであった。鶏と違って、鳩のような弱いものは腹一杯食べると身体が重くなり、隼などの猛禽類に襲われたときには一番先に食われるのだそうだ。地上に降りると、棒や石を投げていじめるているので、何をしてるのかと聞いたところ、地上では常に危険があるということを教えているのだという。訓練だから、忘れないように毎日やるのだそうだ。

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 8月17日、本隊から迎えが来るまで此処で頑張っていたが、迎えにきたトラックの者も「詳しいことは我々にも分からない」とのことであった。今回の出動は演習と異なり、状況は何も分からず、ただひたすら歩くだけの毎日であった。それも昼間の明るい時は危険なので、夜だけの行軍であったので、何処を通ったのかも全然分からない。
★★史上最悪の伝書鳩。煮ても焼いても食えないアホウドリ★これ➹
<ボク、オザワクンニ ソーリにしてもらったんだ~。コクミンなんかじゃないよ>

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酷寒のシベリヤ抑留

古巣の甑山へ戻る

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 昭和21年5月、住み慣れた富寧を出発。東京ダモイに騙され、羊に成り下がった我々を、銃を持った牧羊犬のような彼らが追う。銃を持っているので反抗も出来ないのであった。どこから汽車に乗ったのか分らないが、「洪儀」という駅で下車した。我々が4年も警備していたその「甑山」に向かって歩き出したのには驚いた。昭和16年10月から4年もいた懐かしい古巣である。
 帝国軍人であった我々は、当時、服装も態度も軍人らしく振舞ったのであるが、今はただ落ちぶれて、乞食同然の姿である。我々は、富寧で5千人の大隊に編成されて来たものの、今は背中には手製の背負い袋を背負い、余りにもみすぼらしい恰好で、誰もが部落の人と顔を合わせたくはなかった。
 それでも一本道なので、追われるままに「甑山」部落に入ったところ、部落全員のお出迎えである。私は顔見知りは居ないが、なかには日本軍人として現地の婦人と懇ろになった人もいて、夫婦の約束までした者がいたらしく、お互いの不幸を悲しんでいたようであった。
 部落のなかに2人の現地召集の朝鮮人がいた。日本軍が徹収した後は、兵舎内外の物は一切運んだが、ロスケが入ってきてからは全部取り上げられたとのことであった。

玉砕陣地

 我々はそこにとどまることなく、豆里峰に向かって歩き、豆満江の右岸を下流に沿って進むと、下臥峰というトーチカ陣地が見えてきた。その隣りには真新しい木橋が架かっていたのには驚いた。多分羅津要塞の戦利品を運んだものであろう。橋を渡ると、平地に5個ほどのトーチカが目についた。普段は守備兵はいないらしく、豆里峰の展望哨では発見できなかった。これに対して我が豆里峰陣地は、小銃だけで機関銃も弾もない玉砕陣地であった。

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 スターリンは国境から20kmは無人地帯にしたので、我々は重い足を引き摺りながら奥地へ向かった。やがて日暮れも近くなって、部落が見えるようになってから大休止。今夜はここに泊まる、との指示で野営の支度だ。我々は分隊ごとに焚き火を作り、飯盒炊さんと寝床を暖めるため大きな焚き火をして寝た。翌朝近く、現地人に飯盒を2個盗まれたとの話があった。
 ロスケの歩哨は、我々を監視するのを怠って、何処かに遊びに行ったらしい。毎度思うのであるが、ロスケの歩哨は、我々から物を盗むことだけに熱心で、本来の任務は杜撰きわまりない奴等であった。

暗闇での宿営地づくり

 朝飯の後、奥地に向かって出発したが、例のとおり東京ダモイというが、嘘ばかりなので誰も信じないが、希望は捨てないで歩く。どこで乗ったのか貨車に乗せられ、ウラジオとは関係ない方向に2日程走った。突然、辺鄙なところで下車して驚いたのは、女の線路工夫がいたのだ。犬釘を抜くバールを片手で軽々と持ち上げ、運んでいたのには驚いた。痩せた我々の2倍の目方がありそうな太った連中であった。
 ここはどこであるかも分らず、夕方なのに山に向かって歩いた。殆ど暗くなった頃、原始林の中でここが宿営地だから急いで家を建てろということで、夢中になって作った。漸く出来上がった頃、ここは本部で使うので兵隊はこの先に建てろ、というので改めて手頃の木を探してきて建てたのだが、真っ暗な中で木を運び、漸く造ったら明け方近くになっていた。

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階級章を捨てない将校達

 私達は軍隊ではないからとて階級章を捨てたのに、将校達は依然として階級章をつけたまま労働もせず、将校当番を使って威張っていた。同年兵に石田という人がいた。彼は射撃のとき左眼で狙うので、一発も当たらなかった。身体の故障もあるようなので将校当番についたが、彼の話によると、将校達は毎日軍隊当時と同じ白飯を食い、朝一時間も現場にいると引き上げてマージャンをして遊んでいたのだという。当番は、私達の分隊で雑炊を食ってからの出勤だから、彼から見ても忌々しい存在だったに違いない。
 翌年、民主運動が起き、将校を吊るし上げる材料は、当番たちの証言が一番多かった。その時は大隊長1人、中隊長4人、軍医1人、経理1人、合計7人。マージャンをする2卓には1名足りないので、当番も交代で仲間に入ったようだった。
 国際法では、将校は労働をせずに遊んでいることができるらしいのだ。将校達は忠実にその部分だけ規則を護っていたのであった。下士官以下は、労働を拒むことができないとのことであった。我々は捕虜ではなく、俘虜なのだから労働はしなくてもよい筈なのに、ロスケには通用しなかった。我々は捕虜になるために軍隊に入ったのではないので、そのような知識なぞ誰も知らないのと、ひたすら上官の命令を守る訓練を受けただけなので、それ以外は何も分らないのであった。

原生林の伐採と裁縫

 どうやら宿舎が出来た、と思ったら直ちに仕事だ。切れ味の悪い2人用の鋸と枝を払う斧を渡され原生林に入った。しかし、松、樅など脂の出る木が多く、力のない我々は一向に捗らないので、翌日はロスケのトラックから軽油を貰って鋸に塗って使ったら、どうやら木が切れた。斧は、山の中を探して砥石を作って研いだ。鋸の目立ては、錆びた鑢を見つけて宮下さんが目を立てて、漸く切れるようになった。

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 作業が進むにつれ、被服が破れても着替えがないので、修理をするのだが、針も糸も補給はない。針はワイヤーを拾ってきた物を焼き戻して穴を開け、再び焼きを入れた。腰が弱く、生地の厚い物にはなかなか通らないので苦労した。工場生産のようには行かなかったが、無いよりはマシだった。糸は穴のあいた靴下をほぐした物を使用した。弱った糸なので、再三やり直しをするのであった。

道路建設

 我々の仕事は、原始林を幅20mにわたって伐採し、その中に幅10mの道路を作るのであるが、設計図もなく目検討で工事を進めるので、一週間やっても監督が気に入らない時には別の方向に行くなど、無駄の多いのには驚いた。シベリヤの冬は早く、9月になると霜が降り小川の水も凍るので、重い外套を着ての仕事は捗らない。
 原始林というものは、人間が入らない未開の山なので、目通り直径1.5m以上の大樹はざらにある。その木の下には育ちの遅れた木が無数にあり、伐採の妨げになるので、先ず大木の根元を刈り払い、2人挽きの鋸で切るのである。我々には初めての経験なので、なかなか旨く行かず、自分達で伐った木の下敷きになって死んだ人もいた。木が大きいので、風の吹き方で思わぬ方向へ倒れることがあるのである。防寒用外套を着ているので、身軽な動作が出来ないのだ。切り倒された木は3mに切って10m圏外に運び出し、後日、道路ができてからトラックで運び出すのである。

木株は火薬で爆破

 大木の切り株は掘り起こすのは容易に出来ないので、切り株の根元の土を掻き出して黄色火薬をスコップで1.5から2杯分入れ、導火線1.5mを設置するのだ。100mくらいの距離に、概ね20箇所設置することが出来る。足の速い者が2名指名され、火をつけるのである。導火線が1.5m程と短いので、足が速くないと終ってから待避が間に合わず、飛び散る木株で怪我をすることが多いのだ。
 木の株は、爆破により運がよいときは跡形もなく飛び散るが、運が悪いと太い枝根が残り、とりのぞくために半日もかかることもある。またそのために危険も伴うので、爆破のための火薬はロスケの目を誤魔化し、常に多めに入れるのであった。火薬は関東軍の物で、黄色の粉で爆破の力は大変に強かった。小さな木は斧で切るのであった。

 木が片付くと、概ね深さ30センチの土は木の葉の腐った物だから、「もっこ」を作って10mの圏外に運び出すのだ。真土になったところをブルトーザが来て、道路の形に作るのだ。道路は幅8mにして砂利を敷くだけであるが、土が軟らかなので車は常にエンコばかりをしていた。ノルマなんぞ達成出来るわけがない。車のエンコしたのを手伝ってやっても、ノルマは少しもへらないのだ。ロスケにはその計算が出来ないのだ。
 モスクワでは机上の計算は出来ても、シベリヤの現場では出来ないことばかりであった。ロスケは計画はあるのだろうが、記録は無いのであった。そのために毎日現場で進む方向を決めるのである、

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 3日くらいやったのに、気が変わると道路が別の方向へ向かうので張り合いのないことが多いのだ。秋から冬にかけての現場で大きな松の多い現場があった。漸く大木を切り倒すと、先端に実が沢山付いており、焚き火で暖めると殻をかぶった実が飛び出し、殻を割ると脂の乗った実が飛び出すのだ。落花生のような味で、栄養があるので我々は大急ぎで食べたのだ。我々は松の実を採りたくて、道路とは関係ない所までも出かけて切り倒したのであった。ロスケの歩哨にも少し分けてやって、我々が皆で仲良く食べたのであった。

 道路工事が進むと、通勤に時間が掛かるので現場に近いところに宿舎を移すのだ。伐採の時に大小、さまざまの木が出るので、手ごろな木を集めて小屋を建て、屋根と外壁は松、樅の皮をはがして使用し、雨漏りを防ぐ為に皮を二重に張るのだ。但し、夏だけであるが、3回建てたが、冬は半地下にするので、土地を1mくらい掘り下げて合掌造にして屋根には張芝を乗せる。このため、太い垂木を使うので手間と時間が多く掛かるのだ。切妻には土は腰高にして松の皮を3重にして寒さをふせいだ。
 このようなときは諸橋さんの監督でやるのだが、諸橋さんは家具の職人だけあって、木を見立てる事が旨かった。我々は指示の通りに動くのであるが、釘や針金がないので藤蔓を見つけて縛るので時間が掛かるのである。宿舎づくりは3名で、夕方までに仕上げないと寝る所がないので、常に突貫工事であった。

燃え続ける山火事

 道路つくりが進んで行く途中、山火事で10年間燃え続いている所があった。近くには水も人家もないので消すことも必要ないとのことであった。大雨があっても消えないのは、大木は芯が腐って空になって乾いた所があって燃えていたので消えないのだそうだ。乾燥する時期になると燃え出すのだ、と近くの人の話しであった。その為に小さな潅木がないので仕事が楽であった。

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 諸橋さんについて、このころロスケからトランクを作ってくれとの依頼があり、諸橋さんが作ることになった。道具も材料もままならないのであったが、諸橋さんはテコに私を指名したので、2人で協力して山火事で焼け残った立ち木の中から素性の良い物を選んで切り倒した。60cmほどの輪切りにして、ロスケに頼んで馬車で運んでもらいタポールで板を作った。縦引き鋸がないのでタポールで削るのだが、能率が上らないが止むを得ない。寒い風に吹かれて外で作業するより余程楽だ。釘が無いので白樺の木を削って作った大事な所は接着剤として飯を練ってソクイをつくってくっつけた。鉋(かんな)は何処からか彼らが見つけてきたが、砥石は山の中を探して見つけて作った。

 冬のあるとき、扇状地という広い畑の中の道路の補修に行ったことがあった。夏の頃排水が悪いので、道路の中に大きな穴が多くあいていた。我々は真冬にその道の補修に行ったのであるが、吹き曝しの土地で、薪を取るような山林も遠く、我々の仕事は路肩の部分に穴を開け、地下から砂利をとり出し道路に砂利をつむのである。2人1組となってノルマが2.7kmとの事であるが、測るテープもなく歩測で測るので、その時の監督の機嫌次第で多くなったり少なくなったり出鱈目であった。凍土1mを掘るのに半日以上も掛かるので、砂利を出すだけなら2時間ほどで終るが、早く終わるとノルマの追加があるので誰もが手加減していた。

 この土地は凍土1m下は洗ったような綺麗な砂利で、スコップでドンドン掻き出せる不思議な土地であった。猫車のような物があればその場からどんどん運べたであろうが、運搬道具は何もなく仕方がないので転々と穴を掘るのであった。

彼らの計算能力

 ここで私が経験したことは計算である。ロスケの監督兼歩哨は上からの命令を実行するだけで、どのような計算かまるで分からないのであった。私達は、水谷通訳に相談したところ、彼はピタゴラスの定理で三角形の面積は底辺かける高さ割る2であるからと説明したので、焚き火の側で地べたに図形を描いて納得して、今度は私から歩哨に数字と図形を示して彼の分かるまで教えたのであった。しかし、翌日もその翌日も、まるで憶えていないのには呆れた。ロスケは自由教育で、殆ど学校に行かなかったようで、掛け算の九九がまるで分からず半年ほど居たがそのうちに交替したようで有耶無耶になった。我々の狙いはそのようなことではなく、焚き火の側に5分でも10分でも永く火当たりして仕事をサボる事が目的なので、毎日根気良く続けたので、彼らも夕方のノルマ検査はかなりの手心があって軽くなるので目出度く一日が終るのであった。

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 物を測るのには物差しとか秤が必要であるが、我々の現場にはそのような物はなく日本のスコップがあるだけなのである、スコップは1mだからそれを基準にして2mの棒を作ればよいのに、便利な道具を作ると早く正確に出来るので仕事は早く終わるが、面倒なので、誰もつくらずロスケは歩測が正確と思っているようであった。機嫌のよい時には小股に、悪い時には大股に歩くので我々は仕事よりも彼らの機嫌をとることに力を入れた。

義務教育ではない

 ある日私は朝歩哨に命ぜられ、隊長の家に手紙のような物を届けるのであった。我々には単独行動は許されないので、仕事に体のよわい者を一人連れて行った。その時、学校に行く途中の生徒と一緒になったのであるが、1年から3年の生徒のようでであった。5人ほどの生徒のうち1人だけ背が高く髯を生やしたのがいた。聞いてみたところ、1年生だというので良く見たら風呂敷のような物に本と鉛筆をくるんで肩からぶら下げていたので、最初は先生かと思った。変な先生だと思ったが、矢張り生徒で、1年生だというので更に驚いた。日本では義務教育であるが、ソ連は自由教育なので、学校には行きたい者だけ行くのだから仕方がないのであった。それも行きたい気持ちになった時に行くだけとのことである。

隊長の家で

 隊長の家に行ったら、丁度朝飯時であった。皿の上に馬齢薯を茹でたものを10個ほど、塩を小皿にいれたものがあるだけで、他にはお茶のようなものがあるだけで、何もないようであった。私は預かった手紙を渡したが、彼は「スパシーボ」と言うだけで、「馬齢薯を一つ食え」とは言ってくれなかった。我々2人は、何時までもモジモジして眺めてもいられないし、催促も出来ないのでそのまま帰った。学校などは初めてなので、見たいので立ち寄ってみた。
 学校といっても、およそ100坪ほどの土地に15坪ほどの建物があり、それが教室であり運動場であった。農家の物置程度の建物である。教壇には黒板があり、その隣に幅1m程のソロバンがあった。桁上の球は2段になっており、我々も見た事も無い大きな代物であった。多分満洲あたりから分捕ってきた物であろう。

ロシアの便所

 そのほか2m四方の建物があるので、何かと聞いたところ、便所だとのことで、よく見ると板張りで天井も屋根もないので、雨の降る時は我慢しているのだろうか。地上80センチほどのところに板張りの床が有り、大便をするときの落とし穴があり、その下には薄い板が一枚あるが入口には戸がないのだ。ソ連の農村では何処でも便所はなく、家の近くに高さ1mくらいの垣根があって、その影で用を足すのであった。何処の家でも犬、豚は放し飼いなので、用が終えると犬と豚は競走でその落し物を食べるのであった。後は綺麗になって、蝿もいないようで衛生的だと思った。

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 此の学校は2部制で、午前8名、午後も8名程なのだろう。先生は18歳くらいの娘で、便所を使うのは先生だけらしかった。人間は、食べれば出るのが当たり前なので、改めて隠れる必要はない、ということのようだった。
 私は10年程前にシベリヤ墓参団に入ってシベリヤの墓参に行ったことがありました。外国のホテルは、泊まるだけで食事はありません。車で10分ぐらいの所の食堂に行くのであるが、朝食が終ってから私はトイレに行きましたが、その時に見たのは旧式のしゃがむ大便器が3個あり、お互いは見えないようになっては居るが、前の方は通路から良く見えるようになっていて、目隠しにベニヤ板があり、腰の当たりだけ見えないようになっているが、上と下は丸見えなのだ。
 中の和式の便器には汚物が山のように溜まっていたので、3個の中で一番少ない所で用を足したが、水洗便器でないので流れなかった。私は女便所も見たいと通訳に言ったところ、男女共用とのことで他には無いとの事であった。
 私は建築士という職業上、建築には上、下の水道を考へながら設計しなくてはならないのです。それで下水道は何処を通るのかを見たいので建物の周りを調べたが、マンホールらしきものは見付からなかった。チタという大きな町なのに、何処にも上下水道は見えなかった。通訳の説明では、ソ連では食堂に行く前にトイレに行くので、食堂のトイレは使わないとのことだった。そのためか汚い事は天下一品だと思う。

ノルマの計算は適当

 話を元に戻すと、私は学校を見てから仕事場に急ぎましたが、その日は伐採だったので、ノルマも計算がむずかしくて出来ないのであった。その日はノルマはないので、他の人の手伝いであった。監視兵は100までの足し算と引き算しか出来ないので、我々にノルマを聞かれると歩哨としては面倒なのだ。ノルマとは仕事の量なのであるが、幹部の者が少し分るだけで、普通の兵隊には計算が出来ないようで、その時の気分次第で多くなったり少なくなったり実に当てにならないのであった。
 ロスケは昭和22年秋の頃から共産主義の教育に力を入れてきた。我々もダモイ(帰国)が近いということになればとの思いで一生懸命になったが、入ソ以来騙され続けたので誰も半信半疑で本気にはなれなかった。7日に一度の講習会があって、狭い建物に3倍も集まって講義を聞くのであるが、京都大学上がりの人が厚い本を読むだけで、腹の減った我々は聞いたとて分からないので、暗いのを幸い皆鼾をかいて寝ていた。ロスケも見回りに来ても、暗くて何も見えないので文句は出なかった。その日はノルマの計算が出来ないので、仕事は少なくても終わりになって楽しかった。このような講義ならば毎日でも良いと思った。
 ところが「アクチーブ』という共産主義者を仕立てて各隊に張り込ませ、反軍闘争という名前の運動をやらせたのだ。反軍闘争というのは聴きなれない言葉であるが、今までの上官を皆でよってたかっていじめる事なのだ。話はさかのぼるが、後衛尖兵として出発するとき足の弱い2名を残して出発したのであるが、徹収して帰ってきたら弱い

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1名の姿が見えない。どうしたのかと他の一名に聞いたところ、足が遅いとのことでA軍曹に蹴り殺されたというのだ。私はその時第3分隊長で、第2分隊長の上村さんと常に相談して弱い兵隊の銃を持ってやり、励ましながら行軍してきたのに私のいない時に蹴り殺したと聴いたときにはムショウに腹が立った。戦争中で我慢をしていたが、機会があれば此の仇をとってやると思っていたところ、反軍闘争で上官を吊るし上げる事になったので、私は真っ先にA軍曹の数々の罪状のあらましを述べ立てて左頬にピンタを一発食らわせたのだ。私はその為にアクチーブには大変信頼されたようだった。その後毎晩将校の吊るし上げが始まり、1人に対して3晩ほど続くのであった。
 将校の次には古参の下士官となったが、軍医中尉はのぞかれた。理由は殆どの者が病気をして、軍医の世話になっているものだから吊るし上げの対象にはならなかったようだ。アクチ-ブはよその収容所から来たので、わが収容所の軍医の世話にはならなかったので有難みが分らないらしく、或る日彼らが2名で軍医のところに行き共産主義の宣伝に行ったので、私は仲間を誘って傍聴に行ったのであった。はじめの頃は威勢が良かったのに、30分もしたら始めの元気はなくなり逆に軍医に説得されていたのであった。

 吊るし上げは、雨のない晩は毎日続けられた。下級下士官は自己批判というのがあって、共産主義やスターリンの悪口を過去に言った者は、この機会に「私が間違って言いましたので今後は致しません」と、心にもないことを大衆の前で誓うのである。このようにお互いのアラを見つけて吊るし上げの材料にするのであった、軍隊のとき張り切って、無闇に初年兵をしごいたM兵長が今自己批判をしてきたので、明日はお前の番だそうだからそのつもりで行けというので私は考へた。
 我々は毎日ソ連やスターリンの悪口を言わない日はないので、そのことで毎日吊るし上げたり自己批判していたらきりがないので、私はその晩から風邪で気分が悪いという事にして大衆集会に出なかったので、何時のまにやら有耶無耶になったらしい。

 私の見た吊るし上げというものは、軍隊では聞いた事は無かったのであるが、リンチがあった夕食後、全員集合で吊るし上げられる者の名前を呼んで、明るい所に立たせて上半身裸にされ、作業に使う鉄棒を持たせ両手で頭の上に差上げさせて、アクチーブが罪状を読み上げると、サクラが待っていましたとばかりに鉄棒を持たせられた者を罵倒するのだ。罵倒されても一言も言い訳が出来ない状態だから、無理でも嘘でも認めざるを得ないのだ。見ている我々は「同感」「賛成」「異議なし」と同調して叫ぶのであるが、アクチーブは見ている我々に黙っていると犯人に味方した者とみなして明日から吊るし上げますというので、見ている我々は訳も分からずに「同感、賛成、異議なし」とサクラと同じように大きな声でさけぶのである。自分が犯人になるのはいやだから、アクチーブの言いなりになっているのだ。ロスケの悪口を言わない者は誰も居ないので全員が犯人なのだが、自分が吊るし上げられられるのは嫌だから誰も3つの言葉をさけぶのであった。暗くて我々の顔が見えないのを幸いに、恥ずかしく無いので大きな声で叫ぶのだ。その間、犯人にされた人は一言も言訳ができないのだ。一言、言訳をすればその何倍も吊るし上げ野次られるからだ。

真っ先に吊し上げられた将校

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 我々は、三合村で我が国の軍隊は解体されたので軍隊では無くなったのだと田中大隊長の訓示があったので、上村分隊長がわが小隊も解散して軍人では無くなったのだから階級章はいらないので全員から取りましょうと提案し、小隊全員が階級章を捨てた。それなのに将校は特権があるらしく、階級章をつけたまま作業をしないのに当番まで使ってマージャンなどして遊んでいたので、真っ先に吊るし上げの罰を受けたのだ。
 その頃の仕事は道路工事であった、戦犯にされた将校は、朝夕の仕事の行き帰りはドラム缶を背負わされて歩くのだ。このドラム缶は、御昼の時に飲むお湯を沸かすのだ。我々の昼飯はマッチの小箱2個くらいの大きさの黒パンだから腹が減ってどうしようもないので、お湯だけをたっぷり飲んで空腹を紛らわせていたので大切な仕事だったのだ。戦犯は工事現場では水を汲んで、湯を沸かして各分隊に配るので忙しいのだ。

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大事な食糧、松の実とり

いつも空腹

 我々は俘虜であって捕虜ではないのだが、ロスケ達からは捕虜の扱いであった。我々のことを知るためには、毎日のたべものを知らなくてはならない。毎日朝は、水の多い雑炊を飯食に4分の1、昼は水気の多い黒パン350グラムと聞いたことはあるが確かめようもない。マッチの小箱2個分ほどとお茶。夜は朝と同じ。たまに魚か肉の匂いがすることのある雑炊で、秤、桝などは誰も見たことがない。我々は食事のたびに空腹なのだ。

松の実が大事な食料

 9月頃になると、道路工事の妨げになる松の大木を切り倒した。実がついているときは大急ぎで実を集め、焚き火の所で松傘から実を取り出して食うのであった。松の実は、落花生のように栄養のありそうな味で、10粒も食べるとカが出るような気がした。そのために松の実が欲しいので、道路とは関係のないところまで行って、実のある松を探して切り倒した。

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 私は昭和22年の冬、神経痛になり、左腕が肩から上に上らなくなった。ソ連軍医の診察を受けた。軍医は、ソ連にはリウマチはあるが神経痛はないとのことで、病気とは認められないということになった。怠け者とのレッテルを貼られ、作業は休みなしであった。仮にあったとしても薬などはないのだ。
 私が困ったのは、松の実を取れなくなることだった。戦友が毎日松の実を少しずつ分けてくれるので、涙が出るほど嬉しかった。いつ治るという当てもないので、考へたのは、仕事はできなくても松の実はとりたいという思いだった。

こっそり松の実とりに

 ある日曜日、私は誰にも知らせず一人で山に出かけた。当時は寝る時も作業に行くときも、服装は同じなので誰れも不審には思われなかった。私は腰にタポールという斧を縛って出かけた。松の実は大木の先端につくのである。冬になるとすべての木が凍るので、弾力が
なくなり、木の先端が折れる事が多いので危険である。前日、松の実を採るために木登りをして転落して死んだ者があったため、ソ連から木登りは止められたのであった。

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 私はまだ死にたくないので、タポールを持参したのだ。右手で軽く届く枝のある木を探し、左手を使わないように時間をかけて登った。先端から2m程手前を、タポールで何回か叩いてようやく切った。松の実が付いたものは重たいので、大きく揺れ、慌てて足を絡めた木にしがみついた。タポールは手放したのでよいが、降りる時に下を見るとあまりにも高いので寒気がした。降りないわけには行かないので、足を踏み外さないように用心して、漸く降りた。二度とこんな危険なことはしたくないと思った。
 行く時に麻袋を持参したので、雪の中で松傘を全部拾い集め部屋に帰ってきた。日頃、松の実を恵んでくれた人達に幾分かのお返しが出来たのでほっとしたのであった。

農家も松の実を食べる

 その頃私は何かの用事で、近くの農家を3軒ほど訪ねたことがあった。どの家でも松の実を食べながら雑談をしていたので、床は松の実の殻で足の踏み場もないように散らかして平気で、松の実の殻を吹き飛ばしていたのである。彼らはベットに寝る時以外は防寒靴を履いているので、部屋のなかには殻が多くたまっても気にしないようであった。私の実家は新潟だが、農家で漬けた野沢菜でお茶を飲みながら世間話をしているようなものだ。
 私はある日山の中から煙が上っているのを見つけた。山火事になると大変だと思い、歩哨に話して仲間と2人で見に行ったところ、親子3人で松の実を取りにきたのだとのことである。60歳くらいの父親と25歳くらいのせがれ、娘20歳くらいで、せがれが木登りして実を落とし、父親と娘がそれを集め、焚き火で松傘から実を取り出すのであった。1週間くらい野宿しながら実をあつめるとのことであった。馬を繋いであったので、余程大量に採るのであろうと思った。
帰ってから歩哨に報告したところ、山火事にならなければよいという素振りで、あっけない返事だった。

眠れぬ夜を過ごしたS君

 ロスケは計画はなく、いつも行き当たりばったりの命令である。今日も、無計画に「今晩は此処に泊まる」と言う。其処は道路工事中の山の中だったので寒くて寝られないと言うと、近くの公民館のようなところに案内された。せまい所に50人ほどが詰め込まれた。鰯を並べたよりもきつい感じが分かったので、私は未だ焚きつけたばかりのペーチカの近くに寝ようとしたら、山砲隊の出身で新兵(かりにS君とする)らしいのが割り込んできた。

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 嫌なやつが来たと思ったが追い払うわけにも行かないので、そのまま寝ていたら間も無く歩哨が女を連れ、ペーチカとS君の間に割り込んで来た。私はロスケとの間にS君が居たのでまだよかったが、S君は大変だったようだ。ロスケの歩哨と女は何事か楽しげに語らいながら一晩語り明かした。その間に、何度か懇ろになるので、そのたびに蹴飛ばされたので、一晩中眠れなかったとこぼしていた。私も2回ほど声を聞いたが、まるで喧嘩をしているようであった。
 その頃私はいくらかはロシャ語を分かるようになっていたが、楽しい話なのか喧嘩なのかは、顔を見ないと判断が出来ないのであった。S君は6回ぐらい蹴飛ばされ、その度に目が覚めたとこぼしていた。私は初めS君を恨んだが、朝になってS君の話を聴き、逆にS君を気の毒に思った。
 朝になり、全員外に出て点呼をして異常のないことを確かめたのであるが、女も歩哨と共に出てきた。昨晩は、夜どうし喧嘩をしていたはずのに女の方は疲れた気配もなく、至って晴れやかな顔に見えた。近寄ってよく見たら、昨日山で焚き火をしていた娘であることが分かり驚いた。

 我々は毎日食うことと寝ることのほかには、何も考へることがないのだ。私達は昨晩は夕食なしで寝たので、朝、宿舎に帰って2食分を一度に食える筈だと思っていた。ところが1食分しか出ない。どういう訳かと聞いたところ、炊事係は「作った」というが、届けた者は誰もいないので、どこかで誰かが誤魔化したのだろうと思う。犯人は遂に出ず、仮に出ても犯人はロスケに違いないから、結局、我々は泣き寝入りになってしまった。

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シベリヤの風呂事情

風呂で虱(しらみ)退治

 ある冬の日曜日、使役に出てくれと水谷通訳に言われた。何名だと聞いたところ、5名だという。私達は、道々「今日は何が出るか」などと、休日に仕事に出される不運を馬齢薯を1個ずつは貰えるかもしれないなどと話をしながら、歩哨に連れられて行ったのであった。
 行った先は、部落の端っこにある風呂場だった。道から3m程下がった風あたりの弱い崖下にあり、5mx4mくらいの広さで、入口の左手には靴脱ぎ場があった。壁板部分の桁に5寸釘が10本ほど打ち付けてあり、立ち会ったカマンジール(責任者)の説明では、入浴者が衣類を掛けておくと虱(しらみ)が熱さに耐えかねてバラバラと落ち、床は土間で冷たいからみな死ぬのだという。よく出来ているだろうと自慢げに話をした。だが考へてみると、下着の縫い目に生みつけられた虱の卵は落ちないのだからあまり良いとは思わなかった。

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 浴室は、窓のない中を目を凝らしてみると、反対側の壁に2段の巾60cmほどの棚があり、入浴者がそこに上るというのだ。入口近くに、一辺が1.5mx1.5m、深さ0.8mほどの深さの穴がある。沢庵石のように平たい石が1mくらいの高さに積み重ねてあった。その下に焚き口があり、水が少し溜まっていた。
 枯れ草と白樺の小枝を集め、火を点けたらしぶしぶ燃えていた。火が忽ち元気良く燃えだしたのは良いのだが、狭い室内だから忽ち煙が立ち込め、目が潰れるように痛い。皆で外に飛び出した。私は屋根に上ったのだが、トタン屋根なのに一枚遊んでいるトタンがあるので持ち上げてみたところ、猛烈な勢いで煙が出てきた。よく見たら1m四方の穴が予め作ってあったのだ。

隙を見て風呂炊き

 カマンジール(責任者)はロクな説明もせず、どこかに行ってしまった。そのすきに、たくあん石を積んだ隣にビヤ樽が2個置いてあるので中を見てみたら、水を入れるものらしい。建物の周りを見たら1斗缶のバケツが2個ある。若い者2人に50m程はなれた井戸から水を汲んできてもらい、私は火を焚く仕事をし、他の2人には薪割りをさせた。薪は長さ5mくらいの丸太が山のように積んであったので、2人挽きの鋸で切り、斧で割るだけで燃えるのであった。ビヤ樽2個だけだから忽ち水で一杯になった。
 やがてカマンジールが、お客を3名程連れてきた。彼らに説明させたところによると、入浴者は裸になるとビヤ樽の中にある青葉のついたハシバミの枝(シベリヤでは木の葉が青いうちに寒くなるので葉が落ちないのだ)で温まった石を叩く。そうすると湯気が猛烈に上る。室内は忽ち煙と湯気で見えなくなる。そうしたら屋根の穴を小さくして湯気を逃がさないようにする。下から棒で、穴を大きくしたり小さくしたりして加減をするのであった。
 2段になっている棚には4名乗れる。床板には4名くらいは並んで垢落としが出来るから、8名くらいは同時に入ることができる。だから混雑するようなことはなかった。ソ連では1週間に1回だけ風呂に入るのだそうだ。新しく入ってきた者は上段に上り、暖まると下段に下がり、更に温まると床板に下りて垢を落とすのであった。今流行のサウナ風呂のようなものであった。

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入浴シーン見られるかと必死で

 11時ごろ、カマンジールが来て、「大変よくやってくれた。午後は婦人が入るので、もう少し薪を作ってくれ」と言われた。我々は馬鈴薯にはありつけなかったが、婦人の入浴シーンが見られるならこの際食べ物は我慢しようと話し合い、夢中になって薪を作り、水を運んだ。
 薪が十分にでき、水もしっかり入った頃になり、カマンジールが来た。「大変よく出来た。このくらいあれば午後は充分間に合うから帰ってゆっくり休め」というので、我々一同がっくりして帰って来たのであった。私の通訳が下手だったのか、今日のお土産は何もなく、分隊員にも肩身の狭い一日であった。

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ソ連の井戸

 ソ連の井戸は、深さが5mから6mしかない。秋9月からは殆どまとまった雨が降らないので、水が少なく砂利層なので崩れやすいため深くは掘れないようであった。15軒くらいの部落に、たいてい1箇所しか井戸はない。毎朝男達が天びんで水を運ぶので、遅くに行くと水はないのだ。今の日本のように、井戸枠が作れるのであれば深くも掘れるのだろうが、セメントがない時代だから、農村にはコンクリートの製品などは殆どなかった。大きな石はないので掘るのは楽だとは思うが、あとの管理が出来ないようであった。

地元の風呂

 風呂の使役があったことを忘れた頃のある日、その時の歩哨が来て「ソ連のお風呂を見せてやる」というのであった。気持ちが悪いので、1人だけ誘って2名でついて行くと、別の部落の風呂場であった。そこでは外のドラム缶で湯を沸かし、建物の中に湯を持ち込むのであった。私達が中に入ると大きな盤があり、深さは30cmほどあった。3名程が中でガチヤガチャと話ながら身体を洗っていたのには驚いた。風呂ではなく、これでは行水である。建物には窓がなく、ほのかな蝋燭(ローソク)

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の明かりで透かして見ると、痩せた男たちであった。盟(?)は3個あり、それぞれ5人ほどで囲んでいた。昔、絵紙で地獄の闇魔様から死刑を宣告された罪人が、熱湯地獄の処刑をされていたのを思わせるような光景であった。ここでも日本のように肩まで湯につかる風呂ではなかった。ソ連でも、この頃は未だ軍隊からの除隊が少なく、老人ばかりが多いようであった。
 ソ連では、日曜日には軍隊も農民も全部休みであったが、家畜係は休めないので毎日30分早く出勤する。乳牛を30頭ほど飼育している部落があったが、人間の住まいより厳重にできた建物で、4mくらいの高さのところに横長の換気口が1個あるだけなので、不思議に思って聞いてみた。ここでは狼に襲われたことがあるので、人の家より厳重に作るのだそうだ。窓もそのために幅を狭くしてあるのだそうだ。係の者が厳重に出来た鍵を持っているので、狼が鍵を開けるのかと尋ねたところ、部落から離れているので、人間の泥棒が入るのだそうだ。ソ連では公共の物を盗むと、即銃殺といわれていたのに、ここでは話が少し違うようであった。

牛飼い

 牛の当番は、牛舎に来ると塞がっている井戸の氷を砕いて、水を汲み湯を沸かして牛に呑ませ、干草を食わせてから牛を外に出して太陽に当てるのだ。骨軟症の予防のためだ。前日に水を汲んでおくと、夜寒くて入れ物が割れるので汲み置きは出来ないとのことだ。牛も水がないと干し草を食わないようであった。その日は雪が降った朝なので、牛は雪をかき分け、笹の薬を食うのと楢や椚の葉を食べるなどしていた。雪の朝はたいてい風が強い。あばら骨のよく見えるほどに痩せた牛だから、風に吹かれて転ぶ牛もいた。我々が希望するように死ぬのはいなかった。その牛達は不思議にハシバミの菓だけは食はなかった。それでお風呂に使うようであった。

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巡回風呂

 我々浮虜は、虱(シラミ)に悩まされる毎日であったので、ソ連側で新式?の移動浴場が巡回してきた。それは虱を退治する滅菌車と生温い湯の出る車とがコンビだった。先ず80人ほどを集め、全員裸にし、衣類は各人が渡された紐で縛り、滅菌車の中の鍵に吊るすのだ。終わった者から順番に浴室車に入るのだが、雪印チーズを薄くきったようなザラザラした石鹸を1枚ずつ渡された。牛の小便のような生暖かさの湯の下で体を洗うのであるが、1個の穴の下で5人ほどが押し合いへし合いしながら洗う。まだ体も濡れないうちに、外で待っている者たちが我慢しきれずに入ってくるので、先に入った者は押し出されてしまうのだ。
 押し出された者は、真裸のまま滅菌車から衣類の出てくるのを待っているのだ。マイナス30度の時に、風に吹かれて10分も待たされた後、火傷をするほどに温まった衣類を、ロスケが道路に放り出すのだ。その中から自分の物を手早く見つけて着るのだが、縛り方が悪いと、褌(フンドシ)などは簡単に抜かれてしまうことがあるので油断が出来ないのである。9月から翌年の5月までの間に、2回風呂の巡回が来ただけであった。

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雪を溶かしたドラム缶風呂

 我々は毎日虱に食われるので、何時も痺くてたまらず、ドラム缶
で湯を沸かしたことがあった。薪は無尽蔵にあるが、水がない。炊事用の井戸は炊事以外に使わせる余裕がない。しかたなく雪の降った翌日に、作業から帰ってから雪を集めて沸かすのだ。雪は30cmほど降るが、風が吹くと何処かに飛ばされてしまうのだ。僅かに吹き溜まりに溜まっているのをかき集めてからの作業だから、時間と手間のかかることが多いのだ。吹き溜まりの雪は、峡(?)やゴミが混じっているが、風呂に入らないよりは良かった。この風呂も、最後には2人抱き合わせで入った。一冬に2回ほどだったと記憶している。(注:写真は東北大震災時のものです)

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死体は蹴飛ばして館箱に入れる

 昭和23年2月頃、その日は日曜日で、我々仔虜も伐採の仕事は休みである。私はその日着ていた服がボロボロなので修理していたところ、水谷通訳が回ってきて仕事に出てくれと言う。何をするのかと訊いたところ、コルホーズ(集団農場)で葬式ができ困っているので、日本人に手伝ってもらいたいとのことであった。彼は4人は見つかったが指揮官がいないので、私に出てもらいたいとのことであった。
 私は話を聴いて、兵隊ではない農家の人の葬式を見たいものと思っていたので、では行くからと返事をし、寒くないように支度をして4人とともに歩哨の案内でコルホーズ(集団農場)の事務所に行った。

 事務所では所長と事務員の他誰もいないので変な事になったと思っていた。やがて2頭立ての馬橡に乗った若者が現れ、我々の仲間から3人穴掘りに行くから乗れという。見たところ角スコップが3丁しかないので変だとは思ったが、初年兵を3人乗せてやった。私とあと1名はこちらに来いとのことで、事務所の前に用意してあった棺箱を引き摺って事務所の隣りに行き待っていた。すると、電灯もない暗い所から縄につながれたものを事務員がひきだし、棺箱に入れるのである。それが今日の葬式の人であった。
 死んだ人は、ぼろの浴衣1枚を着た老人であった。膝と腕での関節が邪魔らしく、所長と事務員が2人で蹴飛ばして姿勢を直し棺箱に入れたのだが、マイナス30度以下の寒い所では、手荒なことでもして早く終わらせないと、生きている者が凍ってしまうのだ。我々も待っている間は足踏みを休みなく続けないと足の感覚がなくなるので足踏みしながら待っているのだ。

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死体は狼に食わせる

 棺箱に入れた死体は馬橋の道まで私達が引き摺って行き、所長が棺箱の蓋をして4本の釘で止めるのであるが、その釘も半分しか打たない。どうして半分しか打たないのかと訊いたところ、ここのシベリヤでは狼に食わせるので、狼が棺箱を開けやすいように半分だけしか打たないのだという。
 ソ連人は平気で嘘を言うので、私はどうせ嘘だろうと思って聴いていた。しかし、やがて穴掘りの者が帰って来たので土は固かっただろうと聞いたら、彼らは雪穴を2m程掘り下げたのだというのだ。シベリヤでは風の無いときには30cmほどの雪が降るが、風が吹くと一夜にして何処かに吹き飛ばされてなくなるのであった。
 夏のころ、道路を作るときには道路の近くに穴を掘って砂利を掘り出して道路を仕上げるのである。その穴は直径30m深さ10mぐらいであった。降った雪は風に吹かれてこのような穴に溜まるのである。死んだ人はこの穴に転がし込むのであった。雪穴の中で、死んだ人は腐ることなく、狼に食われるのを待っているのだ。雪の消えるまでは冷凍になっているので狼にとっても新鮮なのだろう。
 

棺箱は使い回し

 棺箱は何回も使うので、厚い板であった。蓋だけは薄い板のようであった。釘の穴も、決められた所に打つので、雪の下から小石を拾ってコンコンと二つほど叩く決まりだった。開けやすいように考えているのだ。シべリヤでは普通の土は1mは凍るので、死んだ人の為に1mの穴は簡単には掘れないので、狼に食わせるのが慣わしのようであった。
 やがて若者は穴堀の者たちを乗せて帰って来た。馬ソリにこんどは棺箱を乗せると、若者はその棺箱に跨り、馬に一鞭当てて威勢良く掘った穴のほうに駆けていったので私達は用がなくなり帰ってきた。
 朝出かけるときには、少なくとも枕団子ぐらいはあるだろうから、それを分配するのに苦労するだろう、などと話ながら行ったのであったが、何もなく、枕辺に飾る花さえもないのであった。私達はみんなに話をする元気もなくなり、肩身のせまい一日であった。

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狼が引きずった痕跡

 私は、後日、狼に食わせたかどうかを確かめたいので機会を狙っていた。3月末の頃、大勢で伐採の仕事に行く途中、1人で列からはなれ、話に聞いた雪穴に行った。事務長の話の通り棺箱の蓋は取れて老人はいなかった。狼が老人を食わえて持って行ったと思われる。
 山林の方向をたどってみると、老人の着ていた浴衣の切れ端が潅木の切り株に点々と引っかかっていた。コルホーズ(集団農場)の事務長は嘘は言わなかったのだ。嘘を言うのは兵隊だけで、民間人は嘘を言わなくても暮らせるのだろうと思った。ソ連の人は寒すぎるためか、幽霊にはなれないようであった。破れた浴衣では、幽霊にも出られないほど寒いのであろう。
 狼は夜になると行動する。昼間は行動せず、しかも一頭では来ないで必ず5、6頭が群れとなって行動する。獲物を捕えると安全な場所まで引き摺って行き、骨まで全部食べるので山の中には何も発見されなかった。

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高熱で入院

 私はシベリヤで、風邪のために38度の熱が幾日も続き入院したことがあった。入院といっても、同じような患者が50人ほど寝ているだけで、医者はどこにいるのか見たことがない。何処かにいても重い患者を診察する時には、豆腐屋のラッパみたいなのものを胸に当てて音を聞くようであったが、本当は何も分からないようであった。
 日本の衛生兵が4名、下士官が1名いるだけで、4名の衛生兵が午前中に2回、午後2回、頭を冷やすだけで患者の模様を診るだけで手は出さないのだ。
 患者は熱の高い者が頭の手ぬぐいをしゃぶるのを防ぐのだ。誰もが雑巾よりも汚い手ぬぐいで、締麗な手ぬぐいで頭を冷やすと夜中に盗まれ、朝までにはなくなってしまうのだ。頭を冷やしているので徴菌の固まりのようなものだから、手ぬぐいをすするようになると忽ちあの世へ行くようになるのだ。
 この病院ではクスリのようなものは何もなく、食べる物は働く者と同じであるが、途中の搾取がないので、いつもより幾分は多いお粥をたべて頭を冷やして寝ているだけの毎日であった。それでも不思議に30日も経つと、腹が減って我慢が出来ず、フラフラと散歩に出るようになるまで快復するのであった。

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山で鹿の死骸を発見

 ある日私は、歩哨に見付からないように近くの山を散歩していたら、偶然に鹿の死骸を見つけた。それは大きな角をもった鹿であった。鹿は平地では足が速くても、潅木の林では狼に追われると逃げ場がなくなり、立派の角が木の枝に引っかかり逃げられずに食われたのであろう。すでに肉のようなものはなく、頭と骨だけであった。
 私は近くの石を拾って鹿の頭を首の処で切り離し、大きな頭を抱えて歩哨のところに持っていった。歩哨は「オオチンハラショウ!」と大喜びであった。私はそのために病気が治ったように見られ、直ぐに退院になって再び重労働となった。労働をしないで寝ていると凡そ30日くらいで殆どの病人が治るようであった。病気というのは殆ど栄養不足が原因のようである。他の病気であっても薬などないので、手当てはせず風邪の者たちと同じで、ただひたすらベットに寝かせておくだけなのであった。

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水虫の足でウドンこね

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 私が国境守備隊、甑山中隊の豆里峰の分遣隊にいたときのことである。6か月毎に1名は炊事当番を交代するのであった。1名は1年で交代する決まりであった。毎朝3時に起き、夜は6時に寝るのである。軍隊の献立は経理部に決められた物があり、それによって材料が来るので苦労はないが、作るのは当番の仕事だから仕方がない。
 未経験の事ばかりで苦労したが、なかでも饂飩(うどん)を作るのには時間が足りないので一番困った。その時山崎さんが一緒だったので大いに助かった。彼は手で混ぜ合わせると足で踏むのである。足で踏んだほうが早く練れるのと身体も楽なのだ。私も、日頃ゴム長靴を履いてばかりで水虫に悩まされていたので、丁度良い仕事であった。何より足も締麗になるのがうれしかった。
 

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山崎さんは刀鍛冶屋さんだった

 山崎さんは鍛冶屋に弟子入りした時に覚えたとのことである。五郎正宗の浪花節にもあるように、親方というものは手をとって教えることはなく、彼も子供のお守りを2年もやった後、子守の用がなくなったので仕事場に入るようになったという。兄弟子達と向こう鎚を握るのにも何年も掛かったようだ。
 その頃の年季奉公は、大工、左官、屋根屋など、ほとんどの職業は僅かの小遣いで兵隊検査まで仕込んでもらったのである。山崎さんも実際には2年くらいしか刀を鍛えていないようだったので、私は彼の実力が分からなかった。

刃先の欠けた小隊長

 その頃、私のいた小隊長は五十嵐少尉であった。この小隊長は年令も若く、任官したばかりで何かにつけて威張るのである。下士官以下は外出が禁じられていたが将校は自由であった。小隊長は、毎朝点呼のとき「宮城遥拝」を行うのであるが、普通の小隊長は指揮刀を使うのに、彼は軍刀で「頭中!」(かしらなか)と号令をかけて得意になっていたのである。
 ある時、いつものように抜刀して「頭中」とやったところ、刀の刃先がなくなっているので、居並ぶ兵隊がそれを見て一斉に笑ったのであった。小隊長も怒ることも出来ず、苦笑いしてその場は収まったが、兵舎に入ってから私に「小隊長室に来い」というので怒られるのかと思って恐る恐る行ったところ、怒るのではなく「相談がある」という。今の隊員の中で、鍛冶屋の経験のある者はいないかというのである。私は1人心得のあるものを知っていたが、設備ができないと困ると申し上げたところ、全面的に協力するので何とか元のようにして貰いたいのだと言うのだ。

今時珍しい名刀?

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 私は承知しましたと引き受け、兼ねて心得のある山崎さんに相談した。彼は、品物を見た上で相談をしたいというので、彼を小隊長室に連れて行き小隊長とともに刀を仔細に見た上で、山崎さんは「今時珍しい名刀で、作り直すことは設備と人手の関係で出来ないが、折れた部分だけの再生ならばできると思います」と申し出た。小隊長は長さは少し短くなるのは仕方がないが、切っ先を元のようにしてくれるならばそれでよいから頼む、ということになった。
 その時には、梃子(てこ)が1名必要なので島田(橋本)を頼みたいというと、小隊長はそれもよしということになり、私が助手になり木炭と筵(むしろ)、細い丸太など思いつくまま品物を整え、翌日ほかの者にも手伝ってもらって豆里峰の山で敵から見えないところに運んでもらった。
 山崎さんと2人で場所を選んで小屋を建て、風が入らぬように回りは特に厳重にし、小屋の中は平らに均し、力の焼きを戻したり入れたりする設備を整えた。私は、分家の政太郎爺さんが毎朝石窮や鶴嘴(つるはし)などの鍛冶屋をする様子を見ていたので、いくらか知識があり、必要な物を取り揃へるのに便利であった。鞴(ふいご)が必要なので、新たらしい天幕を貰って作ってもらった。

邪気払いに3日間睡眠

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 あとは気持ちを整えるため、敷いたムシロの上に2人で3日ほど天空を眺めて眠った。私も3日も眠ると飽きてきたので、山崎さんに聞いたところ、人間は眠ることによって邪念を払うのだそうだ。
 彼は力匠として座り直すと、人が変わったようになって刀を見つめるのであった。更に、この刀は粗製乱造の鈍力だからと、小隊長に話したこととは正反対のことを言うので、いささか某れたが、当時は将校の乱造とともに軍力も多く必要になったため、力鍛治もいそがしくなり軍隊にも召集されたので年李を入れて仕込まれた人が少なくなり、ナタやカマのように動力ハンマーで鍛えた物が多くなったので止むを得ないのだという。それと上質の鉄が段々と不足してきたので、仕方がないことだと言うのであった。
 この刀がそうであるかどうかは分からないが、最近質のよい鉄が少なくなってきたので仕方がないらしい。そのように言われて改めて刀をよく見たら、切っ先の方が鰻のような曲がり方をしていた。山崎さんは3日も寝たので邪念がとれたらしく、炭を起こして刀を焼き、傍らの水の中にざんぶと入れたところ、鈍刀だけに見る影もない姿になってしまった。

砥石で研ぐ毎日

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 山崎さんは、それから毎日、砥石で刀の切っ先を研ぐのである。砥石は、中隊本部の炊事から小隊長の名前で借りてきたので、荒砥、中砥、仕上げ砥と揃へたので大変に助かったようだ。両峰さんは人が変ったように、毎日刀を研ぐのであるが、私は暇だから、ぶらぶらと潅木の中の獣道を歩き回り、誰が仕掛けた罠か知らないが野兎を捕まえたことがあった。山崎さんに話したら、神聖な鍛冶屋職人から大急ぎで普通の人に戻り、兎を料理して2人で食うと、再び神聖な鍛冶屋に戻り刀を研ぐのであった。

名刀という言葉に弱い小隊長

 刀の曲がったのは、水の中で焼きもどせば自由になるのであったが、鞴(ふいご)役の私は大変忙しいのであった。10日も経つと、
小隊長もどんな具合に進んでいるかと催促するので、初めに見たとき
よりさらによい鉄で出来ています。そのために時間がかかるのですと申し上げると、小隊長は益々喜んで、何か不足な物はないか遠慮なく言ってくれというので、「名刀となると仕上げが大事です」と申し上げると、更に喜んで頑張ってくれというのであった。小隊長は名刀という言葉に弱いようであった。山崎さんは鈍刀ほどやりにくいのだと言うのであった。
 

本物の刀匠だった

 ある時、私は山崎さんに赤土を見つけてくれと言われた。その頃、小隊では窯を作って炭を焼いていたので、炭窯を作る赤土の良い場所が分かるので、私はその場所から飯食に八分目くらい持参した。山崎さんは少しとって皿に入れ、水をかけてドロドロにし、筆で刀の刃紋を描くのであった。3回ほど描き直して、漸く焼き入れをしたが、その度に3回ほど焼き直すので、私もその度に忙しかったのである。
 刃紋が気に入ると漸く仕上げにかかるのだが、一日くらいで仕上げたのには驚いた。それよりも山崎さんがこれほどの腕前とは知らず、その出来栄いの見事さには只只驚くばかりであった。小隊長に見せたところ、期待以上に良くできたので早速中隊に行き見せびらかしたようであった。本当に軍隊という所は、珍しい職業の人が多く居る所だ。

共産主義の思想教育

徹底した思想教育

 反軍闘争というものは、巧妙に仕組まれた共産主義の思想教育であった。各収容所から2、3名を募集し、集まった者たちに共産主義を徹底的に教へ込むのだ。次に、反軍闘争といって、職業軍人に復讐するように教育するのだ。彼らはどこかに連れていかれ、約3か月後に元の収容所に戻って来た。この者たちは労働はしないで、専ら習ってきた事を宣伝するのであった。
 先ず、3個小隊が1個小隊の部屋に集まり、京都大学卒の講師が、厚い辞書のような本を読むのである。講師のところは軽油のランプがあり少し明るいが、我々のいる所は暗いので屋外から見えないのだ。それを幸いに、イビキをかいて寝ている者も何人かいて、2時間の学科は夢うつつのうちに終り、その後に作業場に急ぐのである。本の内容は皆目分からないが、昼寝をできたのが大変良かった。皆が毎週やってくれと頼んだが、4回ほどで打ち切りになった。
 そこで彼らは、吊るし上げという別の計画をたてたのだ。

スターリン万歳の強制

 我が収容所の日本側の隊長は、山砲隊のT大尉であった。先ず、軽油ランプが1個、毎日土工作業に使う金梃子一丁を用意し、傍らにT大尉を立たせ、アクチーブの代表が、軍隊においては無用の号令をかける。そして「戦時中兵隊を苦しめた事があったであろうから自己批判をしろ」、また「この戦争において命を救ってくれたソ同盟と同志スターリンに感謝しなさい」というのだ。

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 日本人はスターリンやソ連に対して、誰も憾謝の気持ちなぞ持っていないので、返事を躊躇っている。すると、「命を助けて貰った、その上に毎日三度の食事が頂けるのも、同志スターリンのお陰と思わないのか」と、再三にわたり感謝の返事を強いるのである。なおも躊躇っていると、アクチーブが我々見学者に向って、「それではこの者に思い出させるため、この鉄棒を持ってもらうが賛成か反対か!」と言うのだ。
 いつの間にやら他の収容所からも、応援のためにサクラが来ていた。彼らが「同感!」、「賛成!」、「異議なし!」、と大声で叫ぶのだ。我々は、慣れないため小さな声で叫ぶと、何回もやり直しをさせられるのだ。この同感、賛成、異議なし、というのは、集まる度に叫ぶので、ナホドカで船に乗るまで「スターリン万歳」、「ソ同盟万歳」、「万国の労働者万歳」等々、訳もわからないのに、アクチーブが叫ぶのに併せて、同感、賛成、異議なしと大声で叫んだものだ。「声が低いと元の収容所に送り返す」と脅されるからだ。吊るし上げの時、我々も周りが暗いため恥ずかしくないので大声で叫ぶのだ。その間大尉は、褌一本の裸にされ、両手で鉄棒を頭の上に持ち上げて支えるのだ。これが拷問というものだろう。遂に、彼は心にもなく「スターリンやソ連に感謝します」と言うのだ。

将校たちの特権

 中隊長たち将校は、労働免除という特権があるとのことだった。作業現場の指示をするだけで、毎日30分くらいで現場から引き上げてしまう。将校は全員で7名なので、当番兵の中から1名を仲間に入れ、毎日マージャン暮らしで日を送っていた。私の分隊に、私より2歳年上の石田という者がいたので、中隊長の当番に差し出した。
 当番は、毎日薪取り、水汲み、洗濯と朝夕の飯炊き、それにマージャン疲れの肩もみなどで忙しいのだそうだ。朝夕の飯は白米で、軍隊より良い暮らしをしていたようだ。このことは彼が直接私に報告したのだ。

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 この石田という男、射撃の時、右目を閉じる癖がある。班長が特別に練習と指導をしても直らなかった。ある射撃のとき、5発のうち1発が命中したことがあった。5名並んで、それぞれの的に撃つのであるが、射撃というものは気まぐれで、よく狙ったから当たるとは限らないのだ。私は下手だったのだが、あるとき偶々5発全弾命中したことがあり、そのため中隊代表で競技会に何回も出さされたが、当たりは殆ど1発かゼロであった。
 悔しいのでいつか見返してやりたいと思い、根掘り葉掘りして石田に聞いたのだ。生唾を飲みながら聞くのも楽ではないが、後日吊るし上げの時には大いに役立った。
 私も石田から聞いたことを全部憶えているわけにもいかないので、半分ほど彼らの生活振りを暴いたのだ。当番兵は、私よりも情報が多く正確に知っているのに、誰も進んで私の暴いた事に同調する者はいなかった。このような吊るし上げを3晩続けた上で、「戦犯」の烙印を押すのだ。他の中尉達も、3晩吊るし上げられて戦犯になった。
 西という軍医中尉には、アクチーブも理屈では適わないのと、自分が病気をしたときには良く診てもらいたいという希望があったので、早めに切り上げ戦犯にはならなかった。
 永田という中尉がいたが、ハルビン学院を出ただけあって、ソ連語が堪能だった。ただ1人の通訳だから、忙しく働かなくてはならないので、マージャンなどやっている暇はなく、吊るし上げにも遭わなかったようだ。
 曹長が2晩、軍曹以下は鉄棒なしで、1晩自己批判しただけで終わりのようであった。私は、初めのころは、面白いようなことなので吊るし上げの集会に出ていたが、幹部の吊るし上げが終ると次は兵隊が吊るし上げられる番になる。全員が兵隊で、犯人のようなものだから、やがて自分にも順番が回ってくるのだ。

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 考へてみると余りにも馬鹿馬鹿しいので、腹痛などの仮病を使って吊るし上げの集会に出席しなかったこともある。その時は、代りに壁新聞を書けと強要されるのであった。そのような事は軍隊では聞いたこともなく、誰も書かないのだ。私も紙がないので書けない、とアクチーブに言ったところ、良い紙はないらしく、既に片面が印刷してある紙を持ってきた。
 私は、「ソ連軍の強いのは、スターリンを頂天とする組織だからである」と、心にもないことを絵図面で描いて壁新聞に張り出した。すると、大変印象が良かったらしく、吊るし上げがなく済んでしまった。

戦犯の罰は不寝番

 戦犯は将校室ではなく各小隊に割当てとなっていたから、籤運のよい者に代表として行ってもらった。そしたら我が小隊で、K中隊長を引き受けることになった。戦犯の罰は、毎晩、不寝番に立つことと決められていたので、何処に寝かすか皆で思案していた。そしたら別の小隊に引き取られた戦犯から、不寝番は小隊の入口でないと起こすときに探すのが大変だから、ということで、入口に寝かすことにした。
 今度は入口に寝ていた初年兵からの苦情だ。中隊長の隣りに寝るのは嫌だと言うのだ。仕方がないので私が代わりに寝ることにした。実際に寝てみると、奥に比べて寒いことと夜中に便所に起きる者が多く、その度に寒い風が入ってくるのだ。ドアの板は桧の皮だから隙間が多く、時々はずれることもあり、とにかく寒い。

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 我々の建物は、釘や針金の支給がなく、藤の蔓で縛った物だから、出入口のように、出入りの激しいドアは常に早く壊れるのだ。出入口に寝るのは貧乏籤だから、仕方がない。私は初年兵の頼みで、代わりにKさんの隣りに寝たのだ。我々は水の多い雑炊で毎日仕事をしているので、痩せて骨と皮ばかり。それなのに、Kさんは白米飯を食ってマージャンをしていたので、軍隊当時のように丸々と太っていた。それを見たら腹立たしく、自分が情けなくなった。私だって、能力があって親が金を出してくれたら、今これほど痩せなくとも良かったであろうにと思った。
 戦犯は、朝夕の作業場への往復には、ドラム缶を2人で担がなければならない。このドラム缶の水で現場でお茶を沸かし、各分隊に配るのだ。このドラム缶は、夜には風呂桶となって小隊毎に入るのだ。戦犯が毎日沸かしても、我々は一週間に一度ほどしか入れなかった。何分水が遠いので、汲んで運んでくるのが間にあわないのだ。
 このようにして戦犯は休む暇なく使われたので、見る見る痩せて3か月もしたら我々と同じく捕虜らしい姿になった。だが7か月ほど経った頃、突然、将校だけが何処かにつれて行かれた。不審に思ったが、こちらは気楽になった。

最悪の便所汲み作業

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 我々の仕事で一番嫌なものに、便所汲みという仕事がある。夏は汲まないでもよいのだが、冬は便所が凍ってしまう。ピラミットのように、糞尿が凍り、便所から突き上がってしまうのだ。その為に尻のやり場がなくなってしまうので、やむなく汲み取らざるを得ないのだ。汲み取るといっても、液体ではなく氷である。
 大体日曜日に、6人が1組になって作業をする。先ず、2人が便つぼの中に金棒1本、スコップ1丁とそれに速成モッコをもって入る。便壷は約3m×1.5mで深さ2.5mほどである。だから梯子を使って入るのだ。
 最初、便壺に入るのは一番嫌な仕事だから、戦犯にやらせろということになった。しかし、戦犯である中隊長は、初めてのことで相棒がいないと出来ないと言いだした。結局、私が指名されて便壺入りの相棒になったのだが、最近まで中隊長であった人と穴の中に入りたくはない。
 私は一応監督という立場だから、元中隊長に指示するのであるが、鉄棒を使って氷の黄金柱を崩さなければならない。鉄棒を持った本人より監督であるの私の方に飛沫が多く飛んでくるのだ。しかし、それが作業だから怒る事も出来ない。

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黄色い氷の落下物

 この飛沫は、作業が終ってからストーブに近寄ると、溶けて臭くなるので皆から嫌がられるのだ。大きな塊をモッコに入れ、穴の上にいる2人に引揚げてもらうのだ。モツコは、米の空きカマスに4隅に穴を開け、荒縄を通した簡単のものだ。これでも糞の固まりは大きいのでこぼれることはない。しかし、段々小さな屑になってくると、時々モッコからこぼれる落ちる。上にいる引き上げの2人は、こぼさないように慎重に引揚げるのだが、黄色の氷だから滑り易く、時々、穴の中にいる我々の頭にも落下してくるのだ。
 穴の中から大きな声で「気をつけろ!」と叫ぶのだが、外は寒いのと手袋を3枚もしているため、彼らも自由がきかないのだ。穴の外には引き上げ組の他に運び屋が2人いるのだが、上ってくる汚物を遠くに運んで捨てに行かなければならないから、彼らも忙しいのだ。

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 このほかやりたい仕事に「食事の分配」があったが、これは年の若い人の特権で、古参兵は遠慮していた。食事は、朝夕は雑炊で昼は黒パンだから、朝夕は拾ってきた缶詰の空缶を食器に作り直した物に、人数の通り平均に分配し、籤(クジ)で自分の取り分を決めるのだ。お昼の黒パンもその時に分ける。食缶と杓子に、糊のようにへばりついたものは分けようがないので、食事当番の役得で綺麗になめてもらうのだ。誰もが、毎回腹半分以下だから、自分が舐め役になりたいのだが、それを我慢して見ているしかなかったのだ。

一日だけの発電所長

 5月のある日曜日の午後、水谷通訳がやってきた。これからソ連の発電所の所長になって行ってくれという。私の故郷には志久見川発電所というのがあって、そこで働いている人は5人程いて、夜は宿直もいたようだ。
 私はソ連に入ってから毎日東京ダモイ(日本への帰国)と聞かされていたので、勉強なぞする気がない。水谷通訳から話があったとき、言葉がよく通じないというのを理由にして断ったのに、お前でなくては駄目なのだとおだてられ、しかたなく行くことにした。今日は日柄が良いので、所長が結婚式に出席しなくてはならないので、止むを得ないというのだ。つまり所長の代わりを務めてくれという事なのだ。私は、所長の留守の間、従業員を監督すれば良いのだろうくらいに簡単に考へて渋々承諾したのだ。

ドイツ兵の遺留品が発電所

 私はラーゲルの近くでは大きな建物など見たことがなかったので、発電所は遠くの方にあるのだろうから、馬車が迎えに来るのだろうと心待ちにしていた。ところが、一寸物足りないような若者が1人で来て、「今から案内をします」というのだ。馬車もないので変だなと思いながらついて行くと、30分位で、馬車のようなトラックのようなものの前に案内された。

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 声をかけると、中から体格の良い男が現れ、中に入れという。どうやらこの男が所長らしい。蒸気機関車みたいのもので薪を焚くのだ。薪は30cmくらいの長さに切って4ツ位に割ってあった。此処では薪で湯を沸かし、その蒸気でタービンを回して電気を起こし、50mくらい離れた部落の家庭に6時から9時まで、3時間だけ電気を送るのだという。試しに薪を沢山入れて燃やしたところ、10燭光位のあかるい電灯が静かに点灯した。私はこの珍しい機械はどこの製品かと聞いてみたところ、イギリス製だという。ヒットラーがモスクワ攻めの時に使ったが、負けて逃げるときに全部置いていったのだと得意になって話した。私は言葉が半分も分からないが、彼のゼスチアーでおよその判断は出来た。
 彼は、未だドイツとの戦争の話をしたいのだが時間がないらしく、私
の夕飯はこれだと言って、黒パンと牛乳を置いて軍服に着替えて出掛けて行った。軍曹の階級章をつけていたので、退役軍人らしい。ソ連というところは泥棒が多いところだから、所長が留守だと分かれば発電機の部品はほとんど盗まれるのだ。公共のものを盗むと罪が特に重いのだそうだが、それも現行犯の場合だけで、運悪く見付かった場合だけで、見つからない時はお各めなしなのだ。
 日本人は食べ物以外は盗んでも役にたたないので、盗まないものと信じているようで、私は盗まないことで信用されたようだ。彼は所長といっても、部下は誰もいない。2人用の鋸だから、薪を切るときだけ、仕方なく道案内をした若者が来るのだろう。

お土産は踏みつぶしたカステラらしきものだけ

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 我々日本人は食べ物は当たり前に盗んだが、電気の部品は盗んでも食べられない。我々のラーゲルは電気はないので、無駄になるだけで何もとらないだろうと、所長も安心して出掛けたようだ。彼はお土産を持ってくるようなしぐさをした。私の聞き違いかもしれないので当てにしないで待っていたら、夜中にカステラのような物を持って帰ってきた。途中で落としたのか踏みつけたのか、形がないものをひと口分くらい持ってきた。それがお土産のすべてであった。彼は酒をたらふく飲んだようで、出掛ける前と違って一言も話さず、大イビキをかいて寝てしまった。私は彼の脇に寝たが、酒臭く、しかもイビキがうるさくて殆ど眠れなかった。
 翌日、所長は昼近くまで寝ていたが、頭が痛いらしくドイツ戦線の話はしなかった。私は、彼の分まで朝飯を食ったので大いに満足した。しかも私はこの日は、作業に行かないでブラブラしていられたので、内心では大いに喜んだものだ。

トイレの紙がない

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 我々が困った事の一つに紙がないことであった。ソ連では防諜上?の理由のためか、紙や鉛筆のようなものは全部取り上げられてしまった。そのため、我々は文字を書くことが出来ないのであった。しかし、それは仕方がないとしても、便所の紙のないのには全く困った。一切紙がないから、夏は仕事中に木や草の葉の大きな物を見つけたときには大事に取っておき、翌朝それを使うのであった。食べる物は少ないのに、毎朝大便が出るのには誰もが困ったものだ。
 秋のある日、私は何かの用件で農家に行ったところ、我々を担当している女医が先客として来ていた。敬礼だけして家人に要件を伝えた。この女医は6ケ月に一回身体検査をするのだが、彼女は中尉の階級ではあるが、医学の知識は日本の衛生兵にも劣るようであった。仮に知識があったとしても、設備も道具も薬もないところだから仕方がないのかもしれない。

素裸で等級決め

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 困るのは年に2回、我々日本兵を裸にして、褌(ふんどし)まではずさせ、10名ずづ並べて眺め、1、2、3、4の等級決めをするのだ。1級と2級は重労働、3級と4級は比較的軽い作業を課せられたのである。検査の時は通訳が立ち会う。我々男のシンボルが、女医の予想したよりあまりにも小さいらしい。女医が通訳に、「もう少し大きくならないのか」と質問したので、通訳も困って「日本人とても、腹が減ってなければもう少しは大きくなるのだ」と説明したら、少しは納得したようだった。
 汚い褌でも中身は綺麗なものだと思うのであろう。ロスケは褌はしない。シャツの裾が長いので、褌は要らないようであった。日本人で、タバコと交換に赤褌を渡した者があり、それをネッカチーフのように首に巻いて喜んでいる女を見たことがあった。

芸術品の手鼻かみ

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 秋の10月は寒くて、ガタガタ震えながら検査の終わるのを待つのだ。他の女医はズボンを少しだけ下げさせ、尻の肉を摘んで等級をきめるので寒い時間は短くてすむのだ。その時の女医は、何の用かは分らないが、その家の婆さんと松の実を食べながら、何か面白そうに話をしながら松の実の殻を器用に吐き出すので感心して見ていたら、時々手鼻をかむのである。
 紙のない国では、よその家に行っても、当たり前のように家の中でも手涜をかむのであった。紙のない国の特権のようだった。老若男女を問わず、国民等しく上手であって、我々日本人には遠く及ばない見事な技術?であった。松の実の殻は、翌朝のペーチカの焚きつけに良いらしく、大事にしている様子であった。

どこの家も同じ規格

 ソ連では寝るときのほかは靴を履いたままだから、ゴミがあっても気にしないようだった。家の建築でソ連では全部国有林だから好みの木を切って建てられると思うのだが、家は国で決めた規格というものがあるらしく、何処の家も大きさも間取りも同じで、窓も2重ガラスにして何処の家も同じ大きさの窓であった。寒くないようにするため、出入り口も2重で、総べて寒さに備えているようだだった。夏は蒸し暑いことがないので、冬の寒さにだけ備えているのであった。

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政治やスターリンの話はご法度

 また必要以上に贅沢に造ると密告され、強制労働に連れてゆかれるのだと婆さんから聞いたことがある。若い者は強制労働に連れてゆか
れることがあるようで、我々にも政府やスターリンの話は一切しないが、婆さん達は昔はよかったと思い出話をするのであった。密告されても、老人では強制労働に行っても役にたたないのだ。強制労働というものは5カ年計画を達成するために無料で働かす口実のようなものだ。婆さん達は昔話をしたいのだが、若い者がいると両手で監獄の格子の手つきをするので、そこで話は打ち切りになるのだ。
 建物は総べて丸太で校倉作りであって、鋸と斧だけで造るのだ。丸太の間には菅のような草を挟み、あとで壁土で塞ぐのだ。ソ連では、木材は運搬のためか長さ約3.6mほどに伐るので、間取りも高さも殆ど同じに造るのだ。
 仕上げは、どこかの山から石灰岩を運んできて、無尽蔵にある枯れ木で大きな焚き火を作り、その中に石灰岩を入れて2日も焼くと生石灰が出来るので、その石に水をかけて石灰泥を作り、家の内と外に塗りつけるだけなので、何処の家も内も外も真っ白くなるのだ。
 すべて素人づくりの自給自足の生活であった。丸太の間に草を挟むのは、壁土が落ちないようにするためなのだ。

トイレには棒を持参

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 何処の家も手狭なので、便所がないのでどうするのか不思議に思っていたら、ある一軒で便所らしきものを見たのだ。それは家の後ろに高さ1m程の垣根があって、その中に1m四方ほどの広間がある。用を足す時には50cmほどの小枝を持って行く。放し飼いの豚と犬が近寄ってくるのを防ぐためなのだ。
 私はどんな出来具合なのか見たいと思い眺めていたら、娘が出てきて用を足したのだ。紙のない国では用を足すのも早く、後は野生の猪みたいのと豚と犬が喧嘩をしながら食べるのであった。その時娘は私に、早くどこか見えないところに行けというのだが、私は言葉が分らない振りをして見ていたら、娘は我慢が出来ないので用を足したのだ。紙のない国では紙は使わなくとも、後はきれいなものであった。
 この部落では、便所らしき設備のあるのを見たのはこの一軒だけであった。我々は常に建物の裏に回って、食べられるものが落ちていないかと探すのを楽しみにしていたので、雨の降るときにトイレはどうするのかと余計な心配までしたものであった。
 ソ連では米国製のトラックがほとんどだった。冬はラジェーターが凍るので、毎朝湯を沸かしてラジェーターに入れ、エンジンの下で焚き火をし暖めてから始動するのであった。エンジン下の焚き火は、廃油を燃やすので、エンジンも運転手も真っ黒になっていたものだ。

蜂蜜泥棒

兵器被服検査

 軍隊には1年に数回、兵器・被服の検査がある。何か足りない物があると、「陛下からお預かりしたものを無くするとは軍人精神が足りない証拠だ」と言ってぶん殴られる。運が悪いと、始末書を書かせられたうえに進級の妨げにもなる。誰もがそのようなことは嫌だから、古参の戦友が他の中隊から足りない物を盗んでくるのだ。 そのようにして磨いた技術?をソ連側にも試して見たくなったのだ。このような泥棒は、我々古参兵の得意とするところだ。盗んでくる物は軍隊の物ばかりで、軍用品以外のものはいらない。それも1品か2品で足りるのだ。支給品以外の物があると、後でかえって面倒なことになる。

勇躍、蜂蜜採りに

 ある晩のこと、それは寒い夜のことだった。私達4人はコルホーズ(集団農場)の蜂蜜泥棒に出かけたのである。ソ連の空気は極度に寒いせいか、夜でも新聞が読めるほどに明るい。私は昼の間にしめし合わせていた者とトイレに行くような振りをして宿舎を抜け出した。昼間のような満月を利用し、約1kmも離れたコルホーズの蜜蜂の集積所へと出かけたのである。我々は、寝ている時も作業に行くときも、常に同じ服装だから、支度と動作は極めて早い。

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 私は約40個もある巣箱のうち8個、女王蜂と蜜の一杯詰まった箱を見つけ、箱の中に平均に蜜が溜まっている巣を選らんで引きだした。他の箱はほとんど蜂はいなかった。私達はずっしり詰まった一枚を持って引き上げた。その日に限って犬も吠えない。安心して、途中で分配したほうがよかろうと思い、道端の芝生の上に腰を下ろし、4人分4個に分けて舐めてみた。

劇甘の蜜の味

 それは、世の中にこんなに旨い物は他にはないだろう、と思われるほどにうまかった。舐めた時には、蜂の子も多いのだが、その蜂の子ごと一緒に食うのだ。私達は仕事の行き帰りに見つけておいたセメントの空き袋を持っていたので、丁寧に包んで外套のポケットに入れて帰った。枠は、針金をはずしてストーブで燃やし、そ知らぬ顔をして朝飯後の作業整理などをしていた。

怒鳴り込んできたソ連監視人

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 そうしたら部落の人と歩哨が喧嘩をしている。よく聞いていると、昨晩、日本人10人が蜂蜜を盗んだので犯人はこの中にいる筈だから出せ、犯人を銃殺する、と銃を構えて怒鳴っているということが分かったのだ。我々は入ソの始めから、「公共の物を盗んだり壊した者は、即銃殺」と聞いていたが、それは現行犯の場合のみということも聞いていたので、何を聞かれても知らぬ存ぜぬで押し通した。歩哨にしてみれば、10人も殺されたのでは自分の名誉に関わるらしく、見ていてもハラハラするような喧嘩であった。ソ連では、将校と兵隊が対等の立場で喧嘩をしていることがよくあるので、喧嘩をする時にはお互いが平等な関係になるらしいのだ。
 我々が作業現場に着くと、やや遅れて歩哨も現場に来たが、何事もなかったような態度であった。ソ連は私有財産制ではないので、被害もコルホーズ(共同組合)のものだから大した痛みはないようであった。監視人は責任があるのでカンカンになって怒ったが、我々の中に犯人が見つけられなかったので、泣き寝入りしたのであろう。その後蜂蜜の話は出なかったが、私は、なぜ分かったのかとつらつら考へてみた。そうしたら、当夜は芝が真っ白に凍っていたのに、我々4名が芝を踏み荒らしたので分かった、というのが真相らしい。

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てきめんの天罰

 だがその後がいけなかった。私は証拠を残さないため、その日のうちに全部食ってしまったため、やけに喉が渇く。そのためやたらとお湯を飲んだのはいいが、いくら飲んでも喉が渇く。夕方には下痢が始まり 3日ほどはフラフラと便所通いで、げんなりとして目も落ち込んでしまった。まともに歩くこともできず、杖にすがって歩く有様だった。その時ばかりは「二度と蜂蜜泥棒だけはしない」ことを心に誓ったのであった。

大桶での漬物作業

 夏の頃、ソ連の農場に手伝いに行ったことがある。トマトと胡瓜ばかりを作っている畑であった。ソ連ではトマト、胡瓜は苗を仕立てて畑に植えるだけで、柵を作ったり消毒などはしない。トマトは赤くならないうちに収穫し、大きな桶に塩漬けにしておく。胡瓜は赤くなってから縦に二つに割り、種を捨てて塩付けにしておく。やがてキャベツが出来ると、一緒に漬け込むのだ。
 日本式のサイロを一回り小さくした桶で、深いため梯子を使って入るのだ。中に入る人は雨合羽に長靴とゴム帽子の姿で入り、梯子はすぐに引き上げる。桶の上には2枚の板を渡し、包丁を持った者が2人構える。そこに5人の男が次々とキャベツを手渡すので、2人の男はキャベツの芯を抜いて捨て、葉だけを桶の中に落とすのだ。桶の中の男は、キャベツの葉を桶の隅々に踏み込んで行くのだ。その間に、塩漬けにしてあった胡瓜、トマト、岩塩などを適当に混ぜ込むのだ。桶に入って踏んでいた者は、完全防水なので暑くてたまらず、交替してくれと叫ぶが、誰も交替しようとしない。便所に行きたいので桶から出してくれと言っても、桶の外にいる者は、「誰も見ていないからその場でやってしまえ」と怒鳴るのだ。
 桶が一杯になり、作業が終わった時には、全身汗びっしょりで川から這い上がったような状態になるのだ。我々はそのようなことが分からないので、着替えなど持って行かなかった。

地元民の食事

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 ソ連では1年中ペーチカの火を絶やさないので、日本の竃のように飲むお湯とスープの鍋がいつも2つ乗っていることが多いようだ。スープの鍋にはキャベツの葉が浮かんでいたのをよく見た。ソ連では、朝飯は馬齢薯を蒸したものとスープ、昼は黒パンとスープと骨のついた肉で、夜は黒パンとスープのようであった。
 パンは共同で焼き、決められた日に分配する。馬鈴薯は共同保管所で管理し、決められた日に分配するのだ。分配は主に日曜日に行われる。ここで分からないのは、馬鈴薯やキャベツの分配には、家族の多い少ないに関係なく、家族ごと同じ量に分けているようであった。ソ連では家族の人数ではなく、家の数で分配するので、我々日本人にはそのことが理解できないのであった。
 蜂蜜は熊の好物なので、監視人は常に銃を持って巡回していた。私は事前に調べてそのことを知っていたので、仲間を誘ったのだ。蜜蜂を飼う部落と乳牛を飼う部落とは分業になっているらしく、多くの種類は飼わないようであった。狼に襲われるので、牛舎は監獄のように堅牢に作る。豚は夜は玄関に入れるのだろう。

一部土地所有が許可に

 我々がいた当時、各個人が30平方メートルまでの土地は個人所有が許されるようになった。放し飼いの豚が入らないように細かく抗を打ち、馬鈴薯、玉萄黍などを作っていた。ここでは、協同の畑の3倍くらい作物が良く育っていた。特に馬鈴薯は大きくなっていた。コルホーズでは、夏も冬も出勤時間は同じだから、夏は早くから家の畑の草取りなどをしている。

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 出勤時間になると5,6人が、何処までが終わりなのか見えないような広い畑で、素手で草取りをしていた。それでも、時間になると決まって歌声が聞こえるのだ。我々には歌の意味はわからないが、合唱の揃っているのには感心した。彼らは仕事の最中でも、時々集まり、木の下などで練習をしているのだ。声も畑の雑草も揃ろって伸びていたが、誰も気にしないようであった。我々日本人にはあのような透き通った声は誰も出なかった。なんせ腹が減った者ばかりだから仕方がないのだ。

自分の畑では精力的に労働

 彼らも欲のない人はいないから仕方がないが、自分の畑では朝早くから暗くなるまで働くようであった。大麦、小麦、燕麦など、すべての作物は1mもある凍土が溶けてから作業が始まるのでとても忙しいのだ。大型の耕運機で耕すのだが、無理を重ねて仕事をするので故障が多いようだ。各コルホーズの共有の物なので、機械に対しての責任感も薄いようだ。ソ連人は個人では力は強いが、機械の操作には弱く、扱いが乱暴なので、耕運機のようなものは常に故障をしているようであった。物を運搬するトラックは全部米国製(GMC)で、ソ連のトラックは故障ばかりしていて殆ど動かないようであったが、それを5,6人の人の送迎用には使っているようであった。

毒芹の被害

毒芹で暴れまわる

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 氷が溶けたシべリヤでの話である。ある日、「砲兵隊の者が部屋の中で暴れているので見に行こう」との誘いがあり連れ立って行った。そこで体格の良い男が、部屋の中で所狭ましと暴れ回っていた。私は、その仲間の者に何で暴れているのか聞いたところ、今日仕事の帰りに毒芹を食ってしまったというのだ。私の家は農家で痩せた馬がいたので、親たちから「馬の毒草は、毒芹とトリカブトだ」と教へられていたが、毒芹の現物は見たことがなかった。
 砲兵隊でも古参兵は知っていたのだろうが、初年兵は知らないのだ。約3ヶ月くらい前、わが小隊の者が松の実を食べ過ぎて七転八倒苦しんだ挙句に死んでしまったということがあった。軍医は腸捻転という診断を下しただけで、薬、道具、設備などがなく見殺しにした。今回も気の毒ではあるが、手の施しようがないとのことで見殺しにしたのであった。

朝鮮人参?の毒味

 我々が仕事をしていた場所に、我々が勝手につけた名前で朝鮮人参というのが無数に生えている所があった。昼時、私は小指くらいの朝鮮人参を1個、焚き火で焼いて食べたことがあった。我々の昼食は、小さなマッチ箱2個分くらいの大きさの黒パンしかなかったから、いつもお湯をガブガブ飲んで腹を膨らませていたのだ。私は試しにこの朝鮮人参と名付けたものを食ってみた。食う前に、「俺が30分間なんともなければ食べても大丈夫だから」と焚き火の仲間に約束していた。私が試食した後、皆は固唾を呑んで見守っていた。

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 ところが10分もしないうちに気分が馬鹿になり、空中に浮かんでいるような気分になった。やがて猛烈な吐き気を催してきて、昼に食べたパンまで全部吐き出してしまった。3回吐いたらようやく気分も落ち着いてきたが、ことのついでに「病気だ」と監督に言って夕方まで焚き火の側で寝ていた。いま考へてみると、毒芹の仲間であったのかもしれない。
 ソ連では牛努を食べる習慣がないらしく、山の中に無数に生えているところがあった。我々は用心して、根には毒があっても葉にはないだろうと勝手に結論を出し、枯れ葉を集めて乾かして揉み、砕けたものを吹き飛ばし、綿のような繊維だけ雑炊に混ぜ、固めのご飯にして食べた気分になったことがあった。大変満足したが、毒もない代わりに何の味もなかった。

募る望郷の思い

 我々は何とかして一日も早く帰りたいと、そのことで毎日悩んでいた。ある時、「気違い」になっても帰りたいと思い、その方法を思案していた。ある時、別の小隊にいたKという者が気違いになったと聞いたので、研究のため見に行った。彼は、一切笑わず、悲しまず、怒らず、苦しまず、ただひたすら目は宇宙の彼方を見つめたまま。他は何も見ていないようであったが、時々立ち上がって「蝶々がいた」とて追い掛け回していた。我々には何も見えなかったので、本当に気が狂ったのだと誰もが思った。
 ただ不思議なのは、近くの者の言によれば、3度の食事はきちんと食べ、残したりこぼしたりはしないのだそうだ。Kはその後何処かに運ばれていなくなったが、無事に帰国したと聞いたことがある。私は早く帰国するのには「気違い」が一番理想と考え、分隊の者に3日ほど、「今日から気違いになったから」と言い聞かせたのに、誰も本気にしない。他に良い案はないかと考えて見たが、名案も思いつかなかった。

キチガイになる方法を相談

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 アクチーブの平田に相談したが、だれも気違いになる方法など分からないのであった。このアクチープ平田は、ロスケの「促成赤化教育」を受けた赤の手先で、吊るし上げの時、私がいち早く安部軍曹を殴ったのを彼はよく覚えていたらしく、何かと私を頼りにして相談をもちかけられていた。そのため、今度はこちらから相談をもちかけたのだ。
 私は体力が無いのでこの冬は越せないと思うので、何とか早く帰る事はできないだろうかと相談したのだが、名案もなくそのまま10日ほどが経過した。突然、彼から「5日ほどの間に半病人だけを乗せた汽車が通るので、それに乗せるから準備してくれ」と言うのだ。我々は、入ソ当時からさんざん騙され続けたので、半信半疑ながら着替えの私物を纏めておいたところ、夕方、突然名前を呼ばれた。荷物をもって本部前に来いというのだ。私は今度こそ本当に帰れると思い、天にも昇る気持ちであった。だが私は病人だからということで平田を説得したので、有頂天に喜ぶわけにもいかない。我慢して喜びを押さえていたのである。

貨物車で搬送

 駅まではトラックで行き、長い時間待たされたが、長い貨物車が止まり、中ごろのドアが開いた。「乗れ」というので乗ったら、既にそこは先客で満員であった。ここでは新たに3人が乗りこんだようだ。真っ暗の中で無理に横になっていたら、安心感からかウトウトししてしまった。突然、列車が止まり「今日乗った者は全員下車!」と言うので仕方なく降りた。今からラーゲルに行くと言うのだ。
 その晩は闇夜で、しかもお互いが知らない者同士だから、新潟の「ごぜ」のように、前の人の肩につかまって歩くのであった。30分ほど歩いたら、汚い小屋にたどり着いたが、誰もいない建物で炊事場は別棟になっていた。

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 我々は湿った寝藁をかき集めて寝たのだが、蚤、虱、南京虫の総攻撃を受け、ロクに眠ることもできなかった。寝る前に炊事当番を決めろとロスケに言われ、伍長の襟章をつけたのがいたので、その者にすべて任せて我々は寝たのだ。その伍長が指名した炊事当番が、毎日雑炊を作り分配してくれた。我々はナホドカに行くつもりなのに、なんでこんな所に下ろしたのか説明してくれと迫ったところ、「帰国船は2,000人しか乗せられないので、人数が余ったからだ」というのだ。我々100人が余ったのだそうだ。
 それからは毎日鋸とタポール(斧)を使っての伐採作業の日々であった。ここでは体の大きな監督(彼は兵隊ではない)がおり、やたらと怒鳴るが、誰も言葉が分らないふりをして働かなかった。小銃を持たない監督など怖くはないのだ。我々の方にも責任者がいないのと、鋸の目立てが出来ないので仕方がないのだ。

スターリン万歳!ソ同盟万歳!

 約1か月過ぎた頃、今度こそダモイだとの号令で、大急ぎで支度をし貨物車に飛び乗り、ようやくナホドカに到着した。我々は汽車から降りたらすぐに船に乗るつもりでいたが、そのまま大きな広場に連れていかれた。そこでは先に着いた者たちが、「スターリン万歳!」、「ソ同盟万歳!」などと叫んでいるのだ。それからソ連に対して感謝決議文を読み上げ、同調者が「賛成!」と叫ぶのであった。我々がボンヤリして見ていると、「はっきりと賛成しない者は山に送り返す」と脅すので、我々は訳も分らず大声で「賛成!」とか、「異議なし!」とか叫んだのだ。
 我々が黙っていると、アクチープのような者が目を光らせており、「声が低い!」と怒鳴るのであった。毎日、半日ほどはこの馬鹿馬鹿しい行事につき合わされたのである。

本物の食事の有難さ

 ここでの食事は雑炊ではなく、軍隊の食器で、飯とおかずは別々になっていた。久し振りの軍隊の食事であった。やっと満足感のある食事をとることができたのだ。
 だが、ただで遊ばせてはおかないとの方針らしく、毎日、海岸のゴミ拾いなどに狩り出された。ぞろぞろ歩いている時、海岸で土方作業をしている連中がいたので何気なく見ていたら、何と同郷の島田進さんがその中に混じっていたのである。彼の話では、日本への船に乗るつもりで来たら、乗りきれなかったからとて3か月も土方作業をしているというのだ。我々も、余ったからと1か月間無駄にしたが、彼に比べればまだましな方だ。
 ここでテント生活をし、毎日スターリン万歳、ソ同盟万歳を叫び、感謝文に異議なし、賛成と大声で叫ぶ毎日なのであった。感謝文には、戦争を終わらせたことに感謝するようなことが書いてあったようだが、反対などすれば忽ち山に追い返されるので、心にもなく「異議なし!」「賛成!」と叫ぶのだ。

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 終ってからは1週間、身の上調査があった。我々は何を聞かれても上の空で、1週間が夢のようで、ただただ帰りたいだけの毎日であった。日本に帰るのに天皇島へ上陸などと騒いでいた連中もいたが、我々の仲間は指導者もいないので、そのような馬鹿騒ぎはしないで静かなものであった。
 船に乗ってからは、アクチープらしいのが2組ほど吊るし上げられていた。本人はしきりと謝っているのだが、取り囲んだ連中は、口々に「海へ投げ込め!」と怒鳴っていた。船長がなだめているようであった。入ソ以来、騙しながら苛酷な労動を強制した、その彼らと一緒に日本に帰るのは、誰もが忌々しかったのである。

舞鶴港の松に涙

 舞鶴の海岸の松が見えた時には、誰もが目に涙、涙であった。上陸してからは身の回りが目まぐるしく変わったので詳しく憶えてはいないが、3万円をもらった時には、これだけあれば当分暮らせると思った。何を買ったのかよく覚えていないが、途中で駅弁3個をお土産に買ったことは覚えている。家に着いて、親たちに食べさせてやろうと思ったのだ。家に帰って親に渡したら、中は麦飯なので、庭で遊んでいた鶏に投げてやってしまった。鶏は喜んで、おかずの沢庵だけを残し、きれいに全部食べてしまった。

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 その後の私は、シべリヤで毒芹を食った時のように、毎日毎日が天国にいるように愉快な気分だった。この天国にいるような夢がいつ壊れてしまうのかと、不安な毎日を過ごしたのである。何しろ東京へ帰すからと3年も騙され続けたので、10日や20日家にいても、懐疑心ばかりが強く、心からの安心が得られなかったのである。


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引き揚げ後の私の生活

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糸井川夫人(仮名)のこと

不動産売買の依頼

 昭和28年頃だったと思う。司法書士の片柳氏から連絡があった。「大阪の人が三島に土地があるので調べて欲しい」との依頼であった。その当時、私は開業して未だ目も浅かったので、大変勉強になることなので、格好の教材になると思い調査をして、結果を大阪に報告したのであった。

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 その頃、国は食糧増産に力を入れていた。不在地主の場合、本人の承諾なしに国が一方的に買い上げ、その時点で耕作していた者に安い価格で払い下げたのであった。但し、建物がある部分は宅地とみなし、払い下げは出来なかった。私はそのことを詳しく報告したのである。大阪の地主は不動産屋だけあって、建物の持主に適正な値段で買ってくれと申し込んできたが、農地の値段より遥かに高いので、買主は値切る一方で話が一向に進まない。そのため、私は、本人同士で直接話し合ってくれと言って手をひいた。その折、大阪の地主から5万円の手数料が送られてきた。当時としてはかなりの金額で、本当に有難いお金であった。買う予定の人は、思い通りに行かなかったので、怒るばかりで手数料もくれなかった。早い話が、売買はうまく纏まらないようであった。
 私は建物の調査もしたので、家の中に入って詳しく調べた。その時借主として入居していたのは、千葉の成田不動尊の分身で、身の上相談やら未だ帰還しない息子の安否を診るのが仕事のようであった。私はシベリヤの占いとどんな風に違うのか興味があり、裏に回ってこっそり見ていた。占い師の奥さんは、お供えの米が多いか少ないかによって決めているようであった。シベリヤでの我々の占いと大差がなかったのである。

元女官という人が我が家を訪問

 それから2月ほど過ぎた7月頃、突然糸井川夫人が旦那と共に我が家を訪ねて来た。東北旅行の帰りとのことであった。途中、御用邸に天皇陛下をお尋ねしてきたとの説明であった。黒磯駅からタクシーに乗って御用邸に行ったが、門前で運転手が「これから先は手錠をかけられるので駄目だ」というので、仕方なく黒磯駅まで戻り、公衆電話で陛下にお願いしたら「直ぐ来い」と言われたので、今度は運転手も安心して別荘の中まで入り、陛下に10年ぶりにお会いしてきたというのだ。

陛下も心配していた釜が崎騒動

 私は半信半疑であった。その頃大阪では、釜が崎騒動というのがあり新聞にも度々出ていた。陛下も、侍従や新聞などの情報で詳しく知っておられたようだ。貧困による原因をもっと詳しく知りたいので、旦那と話し込んでいろいろと質問していたそうだ。夫人の話では、夫人は女官として10年勤めたとの事であるが、女官をやめてから三重県の医者と結婚したが、その夫が子供3人を残して亡くなったので、大阪に出て不動産屋になったとのことであった。

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 高島屋の隣に間口1間、奥行き5間の店舗であるが、場所が良いので宣伝しなくてもお客はいつもあって、常に忙しいとのことであった。私が糸井川夫人の旦那と思っていたのは、実は同業者とのことであった。私の頭では、普通の人が陛下と直に話など出来るはずはないと思っていたので、半信半疑で聞いていた。夫人もそれが分ったらしく、今陛下から貰ってきたのだと言って、軍隊のタバコ「はまれ」を10個くれたので、漸く本当に話をしてきたのだと信じることができた。その旦那は、マドロスパイプをくわえたプロレスの選手のように体格の良い人であった。不動産鑑定士という肩書きの名刺を持っていた。その頃は、未だ不動産鑑定士の国家試験はなく、無登録の頃であった。旦那は、私が見たこともないような葉巻をくゆらしながら、お土産にピストル型で高価に見えるライターをくれたのである。

親の決めた相手を嫌い上京 

 糸井川夫人の話を要約すると、当時佐久山町の名門の家に生まれたらしく、子どもの頃から親同士で結婚を決めていた人がいたらしい。相手の人は背が低いので、それを嫌って東京の学校へ出たらしい。その後の経緯の説明は聞かなかったが、女官になり10年勤めてから退職し理想の結婚をしたが、夫は軍医で佐官の肩章をつけていたりっばな写真であったが、その人が早死にしたとのことである。
 婚家は相当の資産家らしく、大阪に店舗と住宅を買ってくれたのだ。そのほか余った金や商売で儲けた金は、弟が足利銀行に勤めていたので大阪から送金して積んでいた。
 やがて地方にも土地ブームの風が吹き始め、銀行金利より土地の
方が儲かるらしいという弟の勧めで、大字三島に3反歩ほどの荒れた土地を勧められたので、一切をお任せして買った。荒地のままで買ったのに、他人の土地を勝手に開墾しても耕作権がつくらしく、建物がある部分の50坪ほどを残し、全部国に買収され、耕作者に払い下げられてしまった。その買収代金も途中で行方知れずになり、地主には入らなかったとのことであった。

弟が無断で不動産を売却

 その後、再度、糸井川夫人から依頼があった。大字関谷に登記面積3町歩の山林があったのに、勝手に何処かに売られてしまったようだから調べてくれ、との依頼があった。私は公図と台帳を頼りに調べ報告したのだが、その土地も弟が無断で、何処かに売り飛ばしてしまったようである。損害賠償を請求するので、見積もりを出してくれとの依頼があった。土地は地元の不動産屋に聞けば分るが、立ち木の値段は分からない。そこで、以前この山林を買ったことのある製材所を経営している材木屋を訪ねて聞いたところ、その当時は電柱にするので何処でも立派な立ち木が要るので買ったものの、土地の値段は無いも同然で仕方なく買ったのだという。その材木屋も要らない土地なので誰かに売ったので、今は所有権は無く、誰が持ち主かも分からないとのことであった。私はその都度、調べた事を詳しく報告したのだ。

結核で入院

 大阪の地主は、40万円ほどの損害とのことで、私に山林が40万円の価値があったと証明してくれとのことで、私は言われたとおりに証明したやったが、運悪く話が纏まらず、裁判になったので困ったことになったと思っていた。さらに不運なことに、私は結核になり入院したのであった。裁判は大田原家裁で審理が行われ、私も証人として3回呼びだされる筈であったが、3回とも医師の診断書に外出禁止と書いてもらって裁判の証人には出なかった。裁判の度に大阪から糸井川夫人が来て、私のお見舞いに多くの見舞いの品々を持ってきてくれた。同室者は6人なので、お土産を皆さんにお分けしたので肩身が広かった。

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 裁判も長引くと双方に飽きがきたのと、姉と弟の裁判なので裁判所もどちらも勝ち負けのない和解を勧告したのであった。お陰で私は一度も裁判所に出ないで済んだ。
 私はその後1月ほど後に退院し仕事に戻ったが、病院にいた時と同じように、夜は9時に寝て栄養には気をつけて養生したのであった。そのため再発することもなく、今日に至っている。
 三島の土地は怪しげな千葉のお寺の分身だという占い師がいたので買う人もなく過ごしていたら、塩原屋がスーパーを開くことになり、占い師のいた所も含めて買わないと註車場が出来ないので、大阪と交渉して買うことになった。しかし、値段のことはなかなか難しく、大阪からは「橋本さんが決めてくれたならばそれに従う」との返事を貰ったので、私が決めて纏まったのだ。但し条件があった。それは「転売しないこと」、「将来必ず発展が山来る人であること」の2つであった。この条件は簡単に満たすことが出来た。買う人は塩原屋商店で、このときには店舗の建築が始まっていたからだ。

糸井川夫人の招きで万博見物 

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 丁度その頃、大阪で万博があり、私は糸井川夫人の招待で万博見物に行くことになった。天皇陛下とお付き合いのできる高貴な人に、我々庶民が普通のお土産を持って行ったのでは恥じさらしと思い、空手で行ったのであった。私はそこで一晩泊まったのだが、一緒に行った塩原屋は、弟が大阪で世帯をもっているのでそちらで泊るというので、私だけで泊まった。私は天皇陛下と直に面会の出来る高貴の御家庭と思って行ったのに、何だか普通に家のようで、間違いではないのかと目を疑った。

専務に騙し取られる

 話をしているうちに分かってきたのは、先年、那須御用邸に一緒に来たのは、同業者その人の意見で、会社にした方が世間の信用が厚いので有限会社糸川不動産として登録した。社長は糸井川夫人で、専務はあの体格のよい不動産鑑定士であった。会計は一切専務に任せていた。勿論、会社の実印、銀行の通帳、死亡した夫の遺産の権利書など一切を専務に預けていたのだが、何時の間にやら専務に使い込まれ、今住んでいる建物だけになってしまったとのことである。2人の息子はのうち、一人は万博の調理師として就職し、もう一人は見習いとして万博に勤務し、妹はパーマの免許を取ってこの家で開業し、私は着付けの仕事をしている、とのことであった。東北地方を旅行した頃の元気さは何処にもない、普通の人になっていた。他人の財産だからいくらあったのか聞くことは出来なかったが、専務はその金を使って、同じ大阪で3階建てのビルを建てて不動産屋をやっているのだそうだ。私は聞いていて、生き馬の目を抜くとはこのことかと思った。

那須も土地ブームに

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 その後、那須地方も土地ブームとなり、働かなくても田んぼの角100坪も売れば、当分暮らして行けるようになった。一反歩も売れば50坪ほどの家が建つので、段々多く売るようになり、不動産屋も早く捌けるわけではないので会社組織にして、地主を会社の重役に迎へ入れ、更に銀行から大金を借り、その金を持って何処かにトンヅラしたという事件が結構あり、当地でも決して珍しいことではなくなった。那須地方には、土地ブームと建築ブームが同時に来たので、土地を売って家を建て替える人が多くなった。材木屋から金物屋など建築に携わる人びとが特に忙しくなった。

夫人が嫌った許嫁はその後医者に

 余談ではあるが、糸井川夫人が、昔、親が決めた結婚相手は、その後那須地方では有名な医者になり、特に廻虫のことでは遠く県外からも患者が来たのであった。私も腹痛で診てもらいに行ったことがある。検便を持って行った。息子とその嫁がどちらも医者だから、2人で顕微鏡で検査をしてくれるのだが、結果は1週間後に分るのだそうだ。廻虫のほか、胃腸病とか癌などが発見されることが多いそうだ。娘も医者だそうで、親子と嫁の4名全員が医者だというのは、滅多にないだろう。

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 その頃は、診察申込み書に職業を書く必要があったので、私は「建築士」と書いたら、大先生が傍らの医学書を見せて、この分厚い本(一冊1万円)が毎月来るので、読まなくてならないので大変なのだ、貴方も建築士だから話すが、患者が来てから本を見たのでは医者失格だから、常に本を読んで頭に入れておかなくてはならず大変な商売ですとのことであった。
 その頃は、健康保険はまだない頃だったから、患者で支払いが出来ない人が多くて医者も集金に困っていたのだ。世の中に運命というものがあるとしたら、糸井川夫人は親の決めた結婚をしていたら女官にはならなかっただろうし、同業の不動産屋に騙されることもなかったろうと思う。そう思うと、やはり運命というものの定め、巡り合わせを感じざるを得ないのである。

憲兵だった人たちの話

Mさんは、
 野崎村薄葉の出身である。彼の話では、ノモンハンの戦闘で我が軍は完全に負け、僅かに生き残った命だから、前線ではない憲兵を志願したというのだ。戦後分かったのは、清洲の憲兵のうち下士官以下は殆どスパイが主な仕事で、民間人になりすまして会社や工場に立ち入って不穏な動きを探すためなので、普通の会社員のように出勤して、怪しい工員の行動を見張るのだそうだ。そのため会社からも給料を貰うので、憲兵隊からの俸給と合わせると良い金儲けにはなるが、責任は何倍にも重いのだ。命令だから会社をいくつも巡るのだ。会社からの給料と俸給だから使い切れないので家に送金したが、戦後引き上げてきた時には、新円切り替えで殆ど全部没収されて無くなっていたのには驚いた。実際にあった話だ。「あぶく銭は身につかず」の諺どおりになった。

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Kさんは、
 北海道出身で、ある士官学校から陸軍中野学校を卒業して戸籍を消し、知人には絶対に会わない、手紙も書かないなどの誓約をしてスパイの任務に着いた。北朝鮮から中国、仏印まで調査の任務に就いた。途中、幾たびか憲兵に逮捕され、その土地の憲兵司令部にて釈放されたとのこと。身分を明かさないので、司令官の他権限がないのだ。ジャングルで発見された小野田少尉のように、背が高く、外国語が流暢な者は、宣撫班として活躍した者が多かったのだ。戦後帰って来たら、母親は幽霊が来たとて、奥の部屋に逃げ込んで震えて出てこなかったとのこと。軍隊から空の遺骨が届き、葬式をやり、3回忌まで済ませた後だから仕方がないのだ。病院の看護婦長になっていた彼女は、死んだとは信じなかったので、再会を喜び、結婚した。

Tさんは、
 金田村鹿畑出身である。彼の場合、満洲で憲兵になり、任務はソ連からのスパイの発見と取り調べが多く、朝鮮人が殆どなので得意の朝鮮語で取り調べた。ソ連では人種が50もあるが、日本人に似ているのは朝鮮人が一番似ているので、国境の朝鮮人は殆どスパイなのだ。Tさんも、2回スパイとなってソ連に潜入したが、新しい情報は得られなかった。戦後はソ連に抑留になり、25年の刑を負ったが13年で釈放になった。主な仕事は、朝鮮人囚人の作業監視が多かった。

Oさんは、
 狩野村関根の出身だ。共産党員として市会義員を永くやり、測量士としても活躍した人であるが、戦争中は憲兵であった。どのような経緯で共産党に入ったのか何回か聴いたことがあったが、要領を得ない説明であった。

シベリア墓参

落ちそうな飛行機で出発

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 私は、平成8年8月28日、シベリヤ墓参団に参加しました。西那須野町からは渡辺常夫さん夫妻と農機具屋の越井さんと私の4名でした。参加した私たちは、シベリヤで死亡した人には縁者は居ないので、観光が目的でした。集合は新潟空港に13時です。13時30分から結団式。80名ほどの集団で、ガヤガヤして話も良く分からないが、何とかなるだろうと思っていた。
 空港での検査はソ連側でやるのであるが、手順が悪く、時間の掛かること夥しい。面倒な手続きが終って待合室で待つことしばし。ソ連から迎えの飛行機が来たが、塗装が剥げ、骨組が見えるかと思うほど屋根のめくれたような飛行機であった。途中で落ちなければよいなあと心配した。この飛行機も、ソ連からお客を乗せて来たので、我々も幾分か安心した。
 やがてソ連行きの乗り込みが始まったが、切符と顔を確認するらしく、馬鹿馬鹿しいほどに時間がかかった。やがて塔乗が始まり、ソ連人から先に乗り込みました。日本の墓参団は最後になりました。飛行機の入口には、3人のスチューワデスが居ました。1人は日本語で「イラッシャイマセ」と言い、別の1人は「ズラーシチ」という挨拶。あと1人は、入口のゴムパッキンが落ちないように、2m程の棒で支えているのであった。

冷風が直撃

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 日本人は、整然と順序よく席に着いたが、先に入ったソ連人は、何か揉めているようであった。座席番号で、私は窓際であった。ここは避難の時の出口でもあったようだった。ソ連の飛行機は、外ばかりか中も汚いので呆れた。日本海の上でバラバラにならなければよいがと心配をした。やがて飛行機は離陸。20分くらいで漸く雲の上に出たが、雲海のために陸地は見えないのに、飛行機は北に向って飛ぶのであるが、私の席は窓の立て付けが悪く、冷たい風が私にまともに当たるので寒いこと甚だしい。席を替えたくても満席のようであり、スチューワデスも回って来ない。仮に来たとしても空の上では取り替へることは出来ないのだろう。私より後ろの人達は全員が寒いのだ。塔乗するとき外人を先に、日本人を後ろの座席に座るようにした理由が分かった。
 新潟を出たときには地上は見えていたが、直ぐに日本海になり、北朝鮮に入っても明かりは殆んど見えなかった。離陸後20分飛んでも未だ雲の中。35分を経過して漸く雲の上に出たが、布団綿の上を行くようで下界は見えない。18時50分、漸く薄暗くなり、陸地が少し見えてきたが、暗いところに光るのは水溜りか湿地のようだ。この機内にはラジオとテレビはないようだ。窓際に居ても外が見えず変化なし。20時20分頃、機内食が配られたが、まだ腹もすかなかったが、少し残して食った。20時30分機外を見ると、明るくなった。白夜というものらしい。20時40分頃、白夜は突然消えて闇夜になると共に飛行機は着陸した。

イルクーツクに到着

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 ここはイルクーツクという所だそうだ、空港に着いても飛行機に乗るときと同じ検査をするので、時間のかかること夥しい。長い時間待って身体と持ち物の検査が終り、空港を出て隣の食堂に行った。広い部屋に石油ストーブが2個あったが、冷えた身体はなかなか温まらなかった。夕食は、馬糞くらいの大きさの硬い白いパン2個ほどとコーヒーだけ。早々に平らげ、暗闇の中を小型バスでホテルに行く。街は暗くてもホテルは明るく、全員4階と5階に納まった。午前1時頃と思う。明朝は早いというのでそのまま寝た。私達は5階だが、エレベーターは無い。階段は幅広く3m程あるようだった。日本では4階以上はエレベーターがある。客室にはベッド2台と電話とテレビが1台、それに長椅子があり、別室は風呂とトイレになっていた。

排水口にゴルフボール

 ホテルは「インツウリストホテル」という名前だ。食事も、量が多く味もよかった。入ソしてからの案内人は、日本人2世らしき人で「ビクトリヤ」という娘さんだ。夜中に2回トイレに起きたのは、夕食に紅茶を飲みすぎたためのようだ。朝5時30分に起きて、洗面に行く。排水口に栓がなく、出発のとき渡辺さんに言われたのを思い出し、ゴルフのボールを当てたら丁度良かった。周りを見たら、素人よりも下手なタイル張りで、なかには割れたものをそのまま使ってる。目地のモルタルからは、藁ゴミのようなものがはみ出ていた。

日本人墓地に参拝

 29日は6時に起床、7時20分集合。7時には荷物を部屋の入口にだしておく。朝食をして8時、出発バスにて「オルハ」に向う。「オルハ」で市役所に立ち寄り、案内の市長と共に墓地に行く。日本人で、満洲国軍の軍官学校の生徒が、8人が埋葬されているとのことである。その人達の遺族が花束を捧げ、線香を燃やし、テープのお経を流して拝んだ。市長ほか2名も見ていた。道路から墓地に至る近道は、鉄道線路を跨いで行ったが、この線路を作るために大勢の日本人が死んだそうだが、その墓地には行かなかった。
 ここ「オルハ」にはアルミニュームの精錬工場があり、ソ連のアルミ工場の発祥の土地だそうだ。工場で使う大量の水は、バイカル湖から引いているとのことである。市長が言うには、遺骨の掘り起こしは法律で禁じられているので、今日は無理だというのだ。終って我々のバスは村はずれの墓地に行き、日本人4人が埋まっている墓地に参拝した。終ってバスにてバイカルに向う。湖岸の小高い丘に日本人墓地があった。松林の中に埋まっていたが、放牧している牛が墓の雑草を食べるので、牛の糞だらけで、手入れをした様子はなかった。傍らに黒御影石に「斉藤六郎此れを立つ」という立派な記念碑があったが、不釣合いの記念碑だ。
 この墓地から100mほど離れた所で、農家の建て前らしき家があり造作をやっていたようだ。墓地の参拝が終り、少し離れたバイカル湖ホテルにて昼飯をとった。鮭の料理とパンである。ここでも黒パンはないとのことだ。帰途も同じ道で、幅は広いが瓦磯のような大粒の砂利道を猛スピードで飛ばすので、怖かった。沿線には松、白樺などの林があり、戦後に植えた物らしく若々しい林であった。昔、我々がいた原始林とは全然趣が違っていた。

赤くてぬるいふろの湯

 バスはイルクーツク空港に戻った。次の訪問地に行くためである。飛行機は16時45分に離陸してチタへ向う。約1時間半、風もなく順調に進み、バイカル湖や原始林は特に景色が良かった。今度は、乗るときも降りるときも面倒な手続きも検査もなかった。バスと同じだ。
 チタのホテルは「ダウリヤホテル」で、寝るだけで食事は毎回別の食堂へバスで行くのであった。主にパンに肉、馬鈴薯を使ったもので質もよく、量も多かった。イルクーツクのホテルもチタのホテルも、間取りも備品も殆ど同じであった。夕食から帰って風呂になり、私は同室になった越井さんに先にお風呂に入ってもらったが、5分くらい経つのに湯が溜まらないという。そこで思い出したのは、イルクーツクの洗面の時のゴルフのボールを思い出し、排水口に宛てて漸く止まった。
 しかし、それより驚いたのは、出てくるお湯は赤くてぬるいのだ。赤い国だとて風呂の水まで赤いのには驚いた。フロは横長の寝棺のようだ。私の番になってもぬるいので、入らないで体を拭いただけでやめた。

紙のないトイレ

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 同じ所に便器があったが、水洗便器でも尻を洗う設備がないのと紙を備えてないのだ。ロスケは今でも尻を拭く習慣は無いらしい。30日朝、5時ころ目覚めたので湯を出してみたら、今朝の湯は案外綺麗だったので洗濯をした。石ケンはホテルの物は質が悪いので、持参した物を使った。
 出発のとき細紐を10mくらい持参したので、室内に張って乾かした。ワイシャツ、下着、靴下など、夕方までに凡そ乾いたのは空気が乾燥して居るからだろう。
 朝食はバスで近くの食堂に行く。昨夜のような白い硬いパン2個と肉の入ったスープであった。ギターを持った男が3人来て、何か音楽を奏でたが誰も分からず興味を示さないので5分ほどで止めて帰った。あとから出たパンは、柔らかい食パンである。昔の黒パンがないかと尋ねたら、今年から黒パンは廃止になったので、今はないとのことだった。ソ連では、空港の職員ばかりでなく、食堂の給仕の足の遅いのには呆れた。1皿ずつ運ぶので時間が掛かるため、スープは冷たくなるのであった。何事もスローモーションなのだ。

自由時間にバザールへ

 今日午前中は、自由時間なので、バザールへ案内してもらった。日本で言うならば商店である。泥棒が多いので、我々のために2時間くらい貸切りにした。入り口と出口に「かんぬき」のような鍵をかけ、他のお客は入れないようにするのだ。私は組み立て式の人形を5個買ったが、計算に手間取り時間ばかり掛かって他の人の迷惑になるので、他の品物は買わなかった。代金の支払いはルーブルであるが、小銭の見方が分らないので、有り金を全部広げ、その中から買い物にかかった代金を拾ってもらったのだ。

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 ホテルを出るとき、現地の案内人に「カメラは手から離すな、財布は絶対に他人に見せるな」という注意を受けながら財布を見せたので怒られた。そのように泥棒が多いところらしい。午後から別の露天市に行ったが、ここではルーブル紙幣以外は使えないというので見学だけにした。冬に備えて冬物が多いようだ。昔の露天市みたいで、売る人の方が多く買う人が少ないようである。自動車の部品を10点ほど並べ、1人が店番をしていたが、何も売れないようであった。
 衣類などは殆ど中国製のようである。シウバーが多くぶら下がっていたが、重いような出来であった。モデルのような若い美人が5人ほどいたが、カメラを向けたら逃げていった。ここで渡辺さんと越井さんが、昔ステッセルがかぶっていたような帽子を買ったので、頭だけは暖かく過ごせるだろうと思った。バザールの近くに広場があり、花の咲いた花壇があった。その傍らに3人の英雄らしき銅像があった。昔の日本の爆弾3勇士みたいだ。別のところには大きな戦車が飾ってあったが、手入れが良いのか錆は見えなかった。

穴だらけのバス

 ぶらぶらとホテルに帰り窓を開けると、車の騒音が物凄かった。コンクリートの建物は音を反饗するためだろう。毎日食堂へ往復するのであるが、バスの全面ガラスは、銃弾が抜けたような穴があり、大きなヒビがあった。別のバスも同じく傷だらけである。車検がないので、タイヤも殆ど山の無いチューブようだ。飛行機も車検がないために汚いのであろう。

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 昼飯後は昼休みして、3時からこの度チタに出来た目的である日本軍捕虜の慰霊碑の除幕式があるので参列した。このチタには、昔、尼港事件の時、日本、米、仏、伊、西などが出兵した事件があって、広島第5師団の記念碑があった。式に先立ち慰霊碑を見たが、検地石を2mの四方角で、高さ1.5mの高さに積み上げ、その上に自然石を上げ、その上に石塔を上げた物であった。更に金属性のねじれたもの立ててあったので、設計した日本人に聞いたら、ここに祭られた人が故郷を望みやすいようにしたのだそうだ。

盛大なセレモニー

 やがて式が始まると、市長がお祝いを述べ、日本の団長が感謝の言葉を述べた。そのときの通訳の上手なのには驚いた。立て板に水を流すようであったが日本の女性であった。本当に通訳したのか間違っていたのかは分らない。チタ市の人が子供を含めて200人程と、軍楽隊の人が20人ほど。軍楽隊は私服に着替えて参列し、日本の音楽を吹奏して呉れた。当日は日和が良いのか、結婚式があって、そのカップルも参拝してくれた。我々が思ったより遥かに盛大であった。
 式を終って別の場所でパーテーを行った、この日のために設営されたようだった。感謝状などをソ連側に渡し、2斗樽の酒の鏡割りなどして盛大のものであった。劇団が来てダンスなどを踊った。コーカサスの劇団で、我々には初めての踊りで珍しかった。その間にも酒やビール、ジュースなど、飲み放題で寿司や赤飯や刺身なども食べ放題であった。久しぶりの日本食で美味かった。

少し通じたロシア語

 ホテルに帰ったのは日が落ちてからで、渡辺さんの部屋でカップラーメンをよばれた。各階毎に世話役がいて、飲むお湯を頼みに行ったら、「ハラシヨー」と言って汚いバケツに水を入れ、ニクロム線のついたラジェ一夕ーのような物をバケツに入れ、部屋に帰って5分ほど待つと湯が沸いていた。係りの婆さんと話をしたが、私のロシヤ語も少しは通じたようだ。沸いたお湯はきれいであった。カップラーメンは要るかと聞いたら、こんなに沢山あるからいらないと言って棚の上から20個ほど出して見せてくれたが、全部中国産のものであった。私たちの部屋は水道の末端のためか、お風呂は今日も赤かったが、トイレの水は透明であった。備えつけの紙は黒くて、厚いのが4~5枚あったが、日本のような柔らかな巻紙はなかった。

汚物が流れないトイレ

 8月31日朝、洗面に行くと水道もお湯も真っ白で薬品のようであったが、錆色ではなかった。例のとおりバスで食堂に行くと、今朝はパンと紅茶と馬鈴薯をいためたものに、半熟卵と牛肉の柔らかな物で野菜は無い。終ってトイレに行ったが、地下室で、男子トイレには羊に水を飲ませるような不器用な溝がついていた。勾配があるので、そこで用を足すのだ。その後ろには大便所があり、3個並んでいた。帝政時代のような便器で、しやがむのだ。水洗が使えないので、汚物が山になっていた。私は山の低い所で用を足したが、足元に流れてくるのでヒヤヒヤだった。この便所は、両脇は見えないが、前面には出入りを兼ねて80cm位の目隠しがあり、使用するときは汚物の有無を通路から確認できるようになっていた。

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 頭の上には、昔、日本石油の煽幅印の1斗缶を縦に2つに切った半分を横にして吊るして、水を溜めてあって、傍らに紐がある。それを引っぱったら、水はパイプを通って下に落ちただけで、汚物は流れなかった。ここチタ市はマイナス50度も下がるので、普通の廃水や下水工事は出来ないのであろう。
 街の中を見ても、廃水のためのマンホールは見えなかった。汚いトイレなので、案内人の娘に女子トイレも見たいと言ったら、男トイレと同じで他にはないというのだ。ソ連では、外出先ではトイレを使用しないように、自分の家で用を足して出るのだというのだ。

ハバロフスクへ向かう

 9月1日7時起床、洗面をしたが、昨日と同じく白い水だ。排水口のゴルフボウルが見えないほど、白い水だ。余程薬が多いのだろう。昼飯後バザールへ出かけたが、私は何も買わなかった。
 21時35分、ここチタを出発。ハバロフスクに向う。到着は23時、永い時間をかけてホテルに到着。2時50分、日本時間で0時50分。夕食らしきものは機内食だけで、シャワーを浴びてそのまま寝た。明日は8時集合との事だ。ホテルは今回が一番綺麗な部屋だ。部屋は9階で、お風呂はシヤワーであるが、暖かだ。トイレも締麗で巻紙もある。洗面には剃刀もハブラシもあったが、ゴルフボウルは必要であった。9月2日8時集合、時間の通りに集まった。

どこに行ってもトイレに興味

 私はトイレに興味があって、何処に行っても真っ先にトイレに行くのだが、何処のホテルも空港もトイレは汚くて、日本には遠く及ばないようだ。ハバロフスクの空港も、トイレの蓋と便座は割れて脇においてあった。墓参団の一行は男が殆どなので、仕方がなく私は無断で女子トイレに入ったのだ。私は旅行に出る前に福田茂雄さんに挨拶に行ったところ、設備と衛生観念、公共物を大切にする道徳観念が欠けており、日本より20年は遅れているといわれたが、正にその通りと思った。
 一行は、バス3台に分乗して平和記念公園に行く。月曜日のためか、出勤者が多く車も多かった。ソ連は車が少なく、渋帯も1箇所あっただけで、順調に到着した。ここには1995年(平成7年)に建てた合同記念碑がある。全国遺族会を代表して、3区の福田茂雄さんが除幕式に参列したそうだ。高さ3m以上もある仙台石が、大きな台石の上に建ててあり、見事なものだ。道路から100mくらい離れ10m幅の敷地の真ん中に2m幅の通路がある。両側は花壇で、切れ味の悪い機械で草刈をしていた。この日は小学校の始業式で、終った生徒が参拝に来た。先生が3人ついてきたので聞いたら、学校の毎年の行事だそうだ。日本の学校で、慰霊碑を参拝したなどということは、戦後は聴いたことがない。ソ連には、日教組のようなへそ曲がりの組合は無いらしい。
 終ってバスで空港に行く。例の如く検査であるが、やることなすことのろまで、じれったいが怒る事も出来ない。検査では、ズボンのベルトの金具が器械に探知されただけで無事に通った。昼飯は時間がなく、機内食になった。帰りの飛行機は普通の飛行機で安心した。約2時間で新潟空港に着いた。

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