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ブログ/2013-07-14

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日本ウズベキスタン協会の創設時メンバーと会ってきました

懐かしいメンバーと待ち合わせ

 今日は、妻と2人でわざわざ渋谷まで行ってきました。遠かったです~。何せ9時13分のバスに乗り、渋谷に着いたのが11時過ぎですからね。ほぼ2時間の行程です。
 渋谷まで行った理由は、日本ウズベキスタン協会の創設時のメンバーと旧交を温めるためです。この協会の発会式をしたのが、1998年4月4日ですから、その時から数えても15年が経過しています。発足のための準備はその前からしていますから、この協会との関係をもつようになって以来、かれこれ16年近くを経過したことになるでしょうか。

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 今日は、その当時、協会の運営を行っていた中心的なメンバーと、旧交を温めることになったんです。澤野千鶴子さん、加藤浩子さん、金尾祥彦・憲子ご夫妻です。このメンバーで、更に中心となるのは、何と言っても澤野千鶴子嬢(上の写真左から2番目)でしょう。彼女は、ジャーナリストの嶌信彦氏の意を受け、初代会長の野田皓一氏をサポートして、協会設立の事務局長的役割を演じた方です。少し言葉は悪いですが、口八丁手八丁、女にしておくのがもったいない、獅子奮迅の働きで協会の設立に奮闘された方です。今は、余り儲からない(多分!)(^^*)リサイクルのお店かなんかを経営されているそうですが、今でも、傍に寄ると張り倒される位の迫力を感じます。
 私はどういういきさつでお手伝いをすることになったのか、詳細を覚えていないんですが、いつの間にか澤野嬢の小間使いのような役割をしていたんです。「いつのまにか」という表現がぴったりくるくらいに、彼女は、人の使い方がうまいんですね。「人たらし」という言葉がありますが、まさにその表現がぴったりな方です。それとジャーナリストの嶌信彦さんが協会設立に情熱を燃やしておられたので、私どもは、嶌さんの人柄にも惚れて、ついていったというのが正解かもしれません。

嶌さんを慕って参集

 嶌さんは当時、TBSのブロードキャスターに常時出演するなど、当代きってのジャーナリストとして鳴らした方ですから、皆さんもよくご存じのことと思います。発足時、嶌さんはまだ副会長という立場でしたが、実質的には会長の役割を演じておられたといっても過言ではありません。

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 協会の発会式には、ウズベキスタンのシャイホフ大使や日本の小畑駐ウズベキ大使、それに政界からも羽田孜元総理、小野清子参議院議員など、そうそうたるメンバーが参加されました。
 その中で、お前は何をしていたのかと問われると困るんですが、私は、広報誌の作成を担当していたんです。当時は、今のようにパソコンがそれほど普及していませんでしたし、その性能もいまいちの時代でした。そういう中で広報誌を作るのは結構大変でした。幸い協力者が大勢いて、編集や発送の作業を手伝ってくれたんです。原稿も、広報委員会の皆さんに協力してもらったので、毎号、取捨選択するのに困る位の原稿が集まったという記憶があります。会報の印刷は、私が住んでいる幸手の小さなトキワ印刷というところで、値切り倒して印刷していました。
 当時は、嶌さんの奥様、富美子さんと仰ったと思いますが、彼女も協会の雑用を一緒になって手伝ってくれ、忙しいながらも、和気あいあいとした雰囲気の中で作業をしたものでした。

会員数は500人ほど

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 当時の会員数は、約500名でした。しかし、財政的にはかなり苦しいものがありました。入会費は2,000円、年会費が3,000円でした。年間の予算額は500万円前後だったはずです。嶌さんの意向で、「極力、個人会員中心でいく」という方針で、法人会員には殆ど声をかけていなかったからです。嶌さんのネームバリューをもってすれば、法人からの寄付金をいくらでも集められたと思いますが、それはしませんでした。「武士は食わねど高楊枝」という感じでしょうか。
 唯一、マイクロソフト社にお願いしてパソコン一式を寄贈して頂いた位だと思います。それでも会員の方から、鉛筆やボールペン、切手などを寄贈して下さる方も結構おられて、何とか協会の歯車は回っていました。

ホームステイのこと

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 当時、ウズベキスタン協会では、しばしば現地の高校生などを預かるホームステイを実施していました。ホームステイといえば格好いいんですが、預かる者の物心両面の負担は大変でした。
 そもそも、ホームステイでやってくる高校生は、先ず、金銭的な負担は一切しません。お金を出そうという雰囲気は、最初から全くないんですね。預かっている間は、一日中家にいるというわけにもいきませんから、あちこちの観光地などの見学をさせたりしました。1週間の滞在期間中、飽きさせないように、目配り気配りが結構大変なんです。食べる物にも遠慮がありませんし、好き嫌いも多かったですね。妻は毎日頭を悩ませていましたが、気持ちよく協力してくれました。
 ホームステイ君は、毎日、母国ウズベキスタンまで長距離電話で長話です。ウズベキスタンまで毎日電話をしたら、一体いくらになるんだろうと、内心ヒヤヒヤしたものです。
 そのうえ、帰国してから、礼状の一通も来ませんでした。勿論、両親からの挨拶なども一切ありません。お国柄、文化の違いと言ってしまえばそれまでですが、日本の国民性とはかなり異質なものを感じたことも事実です。でもこれがボランティアというものなんでしょうね。

別かれて渋谷を見学

 皆さんと別れて、渋谷を見学しようということになりました。新しく「ヒカリエ」というデパートが出来たというので、そこを見学しようというんです。ところが、この渋谷という街、地下から地上まで、複雑な迷路のような構造になっていて、自分が今どの位置にいるのか、さっぱり分かりません。

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 妻から「ヒカリエに案内して」、と言われても思案に暮れるばかり。第一、ヒカリエなんて言葉、今日初めて聞いたんです。居合わせた金尾ご夫妻が気の毒に思い、案内してくれたまではいいんですが、お店はどこも若者が溢れ、商品も若者好みのものばかり。高齢者向きのものはどこにも見当たりません。必死で探せば、どこかにはあるんでしょうが、見つけることすらできません。周りの若者の集団を見ているだけで疲れてしまい、「どこか落ち着いて買えるデパートにしよう」ということになり、半蔵門線で三越に行きました。
 ここはさすがに若者より壮年者や高齢者が多く、安心しました。私は、こういうデパートなどに来たときは、1時間という時間を決めて、それぞれ別行動をとります。女性の衣類を買うのに付き合うのは時間の無駄だし、手持無沙汰に堪えられないからです。
 妻は、せっかく都心に来たんだからと、「衣類1着は欲しい」と意気込んでいましたが、結局、「幸手で買えば5,000円位のものを1万5,000円で買った」そうです。私は、全国共通の値段で売っている、本屋さんで立ち読み専門。1時間はあっという間に過ぎました。
 懐かしの幸手駅に到着したら、何と、今日は「幸手祭り」の日でした。地元の高校生らしき集団が、駅前で太鼓の演奏を披露していました。やっぱり、渋谷より、こういう田舎の風景の方が落ち着くな~、と思いながら、今日一日が静かに暮れていったのであります。
 



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